『ボヘミアンラプソディ』の衝撃と。

2019年まであと少し。ここで今年、2018年は何だったのか、という個人的な観点を。

 

僕はバルセロナのサッカーが好きだった。具体的に言うとペップ時代のサッカーだ。このブログでも書いた通り、あのシャビ、メッシ、イニエスタ、おまけにペドロの攻撃が好きだった。

 

あのサッカーには哲学がある。つまりボールポゼッションを究極的に高めて体力を温存。取られたときに猛ダッシュでボールを奪い返す。あれは僕の患者人生の中で強烈に模範となったスタイルだ。つまり積極的にゴールを目指すというより技術(知識)を蓄えて、体力(行動)はリアクションのときにだけ使う。

 

僕はこれで人生がうまくいっている。この哲学を参考にしたことで不用意な行為をしなくなった。ずっとベッドに横になってスマホで情報収集して体が起きたい、と思ったときに起きる、というような行動をリアクションありきでこなすスタイルだ。

 

この方法は理にかなっていた。計画というものを立てないわけだから、計画を立てる手間がかからない、動きたいときに動くわけだから体もストレスを感じない。

 

本当にうまくいっていた。だがこれは消極的といえば消極的な生き方だ。相手にボールを取られたときにしか全力で体力を使わない。つまりはじめからゴールに向かって全速力ではないのだ。

 

だがバルセロナのそのサッカーは究極的なものがあった。結果だ。勝利という結果が出続けていた。過程がパス回しという消極的さであっても決めるときにゴールを決めて勝ち続けていた。

 

先日、映画『ボヘミアンラプソディー』を観た。僕の人生の中で一番ではないけれどかなりの上位に来るベストいくつかの中に入る映画。

 

フレディマーキュリーの半生は結果が最大限に出た上に"積極的"であった。

 

夢や目標に向かって全速力で結果が出た。それに多くの人が感動したわけだが、この生き方は、と思ったのである。

 

結果が全てで泥臭い全力の過程をすっ飛ばしたバルセロナのサッカーはたしかに結果は出た。だが、『ボヘミアンラプソディー』にあるフレディマーキュリーの在り方はもっとすごいように思えたのだ。バルセロナで勝ってもフレディマーキュリーで勝っても人生は等しく勝ちだ。

 

だが最後はフレディマーキュリーで勝った人が本当の人生の勝者なのではないだろうか。フレディマーキュリーはたしかに早死にしたがそれでもきっと本人に悔いはなかったであろう。僕が今年最後の最後で受けた衝撃は新しい生き方として2019年に表現したいと思っている。