がんばれないひと。

統合失調症歴10年。35歳男の雑記です。地元のフリーペーパーの記者をやっています。

三島の失敗とは何かを考える。

これは我ながら画期的な、

 

私見だと思うのですが、

 

三島由紀夫の自決でよく言われているのは、

 

時代錯誤というものと、あとこれは僕は最近知ったのですが、あの最後の演説で、自衛隊の決起を促したが、

 

その場にいたオーディエンスが、

 

普段から肉体的鍛錬を積んでいる、ザ自衛隊の人ではなく、

 

会計とか経理部門の自衛隊で、

 

要するに武士ではなかった、

 

という話があります。

 

まあ、そのミスはハナから三島の本質を突いたものではないことは

 

すぐにわかりますよね。

 

時代錯誤の方は、一見、物分かりのいい人間が考案した指摘のように思えますが、

 

あれも本質ではない。

 

本質は、三島が、

 

"積極的に美を認識しようとした失敗"

 

だと思うんです。

 

つまりこういうことです。

 

美っていうのはリアクションで感じるものか、間接的に感じるものかの

どっちかなんですよ、理論上。

 

リアクションというのは、

 

つまり、何か予定にそぐわないことが起きて、あたふた頭が快適を味わっていないときに、感じるものなのです。

 

これが僕がよく例えに出す、

 

3日水を飲んでなかったあとの

一滴の水が美味しい、

 

というような種類の快楽です。

 

間接的というのは、文学ひいては

 

芸術ですね。

 

三島が構築した文学もそうですが、

 

文学ってモジなんですよ。

 

字なんです。

 

食べられないし、

 

ただそこに書いてある字とはセックスもできません。

 

読んで美を想像する。

 

これは間接的な美です。

 

書いたら、それは直接的な美なのでは?という問いもおかしいでしょう。

 

なぜなら書いているときに美を直接的に感じていたら、モジが書けないでしょう。

 

つまり、どっちに転んでも、

 

美は積極的には感じとれないんです。

 

それが美の性質なのです。

 

三島は自身の業の深さから、

 

美を積極的に、つまり、美を追いかけていったところに失敗があったのです。

 

そして直接的にも美を感じとろうとした。

 

三島はこういう言葉を残しています。

 

「明日死ぬとわかっている人間は妙に幸福になる」

 

特殊な環境においてはあるいはそれは真実なのでしょう。

 

特攻隊の、今まさに特攻するという人間の心理状態にそういうのはあるかもしれません。

 

ただ、やっぱり死ぬんですよ。

 

死ぬ瞬間に感じられる美、つまり快楽は、人間は感じ取れるという主張は、

 

科学的にオカルトです。

 

美を、神様という概念に置き換えてもいいかもしれませんが、それはやはり人間の踏み込む領域ではない(積極的、直接的に美を感じとるものではない)ということを

 

三島の死から学ぶのが、

 

一番の正解なのではないでしょうか。

 

そしてもし、三島に失敗があったとすると、

 

そこです。おそらくそこだけですが、

 

肝心です。