がんばれないひと。

統合失調症歴10年。35歳男の雑記です。地元のフリーペーパーの記者をやっています。

自殺した文豪の現代における意味。

これはですね、否定っていうのならば、

 

人生の平均値の幸福的には、アリだと思うんです。

 

楽しい方、明るい方を見ていけばいいわけですからね。

 

実際、脳科学者の茂木健一郎なんかは、昭和の文学を形容して、

 

不幸になる方法が書いてある、とそう言います。

 

しかし、僕は捨てきるっていうのはちょっとどうかと思います。

 

哲学的な話になりますが、多くの人は、

 

この地球上に生きている人間が等しく幸せになってほしいと思って経済活動していると思います。

 

バイトとかだとその意識は低いですが、

 

正社員になると、自然とモチベーションがない人間は淘汰されます。あるいは自分から会社を辞めます。

 

だけど、みんなが幸せな世界って訪れないんですよ。

 

確固たる理由はないですが、

 

歴史が全てを物語るでしょう。

 

この世に生きている人間が全員美男美女で、全員金持ちで、全員スポーツ万能で、

全員頭がいいというのはありえないのです。

 

相対だからです。

 

何ごとも比較の世界だからです。

 

で、そうなると幸せの在り方なのですが、

 

実は昭和の文豪が発見した幸せの在り方っていうのは一度見つけたら、強固にそれが幸せであり続けるのです。

 

僕は一つこれは真理だなと思うことに、

 

不幸中の幸い的な幸福って、幸福中の幸いより、幸福度が強いんですよ。

 

飢えたあとのご飯が美味しいとかそういうやつですが。

 

でもこれは馬鹿にできなくてですね、

 

一旦その不幸中の幸福が、幸福の中の幸福よりも、幸福度が強いと感じた人間は、

 

不幸を怖れないところがあります。

 

むしろ敢えてそういうところに身をおくという人までいます。

 

僕はでもそれは幸福に対する冒涜だとは思います。

 

敢えて不幸になる、というのは理にかなっていません。

 

もっとも理想なそれへの近づき方は、

 

自然と不幸に寄り添う感性を身につけることだと思います。

 

だけどこれには人生経験とテクニックがいる。

 

普通の幸せを感じている人間は、そんな人生経験もテクニックも得る機会がないでしょう。

 

そこで本題に戻ります。

 

不幸になる方法を描いたとされる文学は、

 

たまに健康的な幸せロードを歩んでいる人間がふとした拍子に思い出すことにあるのです。

 

あるいはたまに想像するためにあると僕は思っています。

 

幸せが継続している人間が、

 

ふと立ち止まったときに、

 

昔、三島の金閣寺とか読んだな、

 

となって思い出して、

 

一瞬、プレイをするのです。

 

その瞬間のために、そのためだけにでも不幸になる方法は存在するので、

 

切り捨ては、間違った発想なのであります。