三島が正しかったこと。

こういう話を聞いたことがないだろうか。

 

鬱病患者の方が健康な人よりも正しく世界を捉えている、というような。

つまり、ポジティブバイアスというのは必ずあるものなのである。

 

音楽を聴く、セックスをする、美味しいもの食べる、どれも脳が快楽物質を出す行為だ。それらだけを追求した人間には見えないものがある。それは80年経ってみても、幸福バイアスがかかった人間には、見えないものがある。バイアスがかかっていない人間にしか見えないものがある。

 

三島の思想は、一言でかんたんに言うと、

 

幸せである状態を感じてはいけない、

 

というものだ。

 

これはとてつもなく単純でまた残酷なもののように見えるが、

 

そうであるからこそ、三島は数多くの真理をユーモラスに言葉や物語にして残せたのだ。

 

まず第1に絶対に間違っている考えのうちの一つに、

 

快楽だけを追求して快楽だけを経験して真理を得た人間がいる、というものだが、そんな人間は歴史上一人もいない。

 

村上龍の活動を追ってみればわかる。

 

昭和の悲劇的な文豪の生き方を避けて、

 

『69』で主人公に、「暗く不幸に生きている人間に、俺たちの楽しい明るい姿を見せつけてやるんだ」

 

という台詞があった。

 

だが、村上龍自身は、後のエッセイやRVRなどで、「歳を取った人間同士が、今日も元気だぞ、お前も元気か?元気だぞ!」というような会話を交わすおじさんは馬鹿だとはっきり述べている。

 

つまり、村上龍のような出発点がある作家も、最終的に三島やその他の昭和の文豪が感じた幸福バイアスの排除、にならうより他なかったのである。

 

だが、実は三島は、いい人生だったのではないかと僕なんかは推測している。

 

というのも、三島が本質的に知った、幸福バイアスの存在は、

 

その幸福が何による幸福かによって、

感じてもいい幸福であるという道筋も示しているからだ。

 

例えば、飢えたのちに食べるご飯は美味しいとか、丸一日飲みものを飲まなかったあとの一滴の水が美味しいとか、

 

その手の快楽には価値を見出しているのである。

 

よって、三島はそういった言わばニッチな幸福を追い求め、それはビジネス用語でいうところのブルーオーシャンであったわけだから、文筆業は大成功したのである。そのことには幸せを感じた瞬間はあっただろう。

 

だが、それは長く続かなかった。

 

「幸福とは何も感じないことよ」

 

三島はさらに論を進め、時間が経てば、ニッチなはずの幸福も、やがて大衆が感じる幸福バイアスの一因になることを知って、最終的には、どんな類の幸福も自分にはあり得ないと感じたのかもしれない。

 

そこまで行くと今度は普通の人にとっては弊害になるので、

 

自分にできる限りの、ニッチな幸福を探すのが、豊な人生かなと思います。