がんばれないひと。

統合失調症歴10年。34歳男の雑記です。3年後までに文筆で成功し、犬とともにアメリカ移住を目標にしています。地元のフリーペーパーの記者をやっています。

三島も春樹も龍もいなくなった。

僕が生き方の参考にしていた三人は

今、現代にどういう形で影響があるだろう。

 

僕にはそれが想像できなくなってしまった。

 

35歳になろうとしている。芥川や太宰も亡くなったあたりの年齢だ。

 

三島も45歳で自決している。

 

春樹や龍も歳を取った。

 

彼らの精神は偉大であったが、

 

もう影響を受けた僕自身も、

若者ではなくなる。

 

そのことに関して、何か思い詰めてしまうところがある。

 

三島は日本の伝統的な、武士道の精神は消え、ニュートラルな抜け目のない経済大国が極東の一角に残る、と残した。

 

亡き三島後、春樹と龍は、武士道の精神も経済大国の精神からも、距離を置いたスタンスで言わば合理的な文学を志した。

 

だが現代における合理とは何であろう。

 

長生きが合理なのか、AIが合理なのか、誰もわからない。

 

別に龍や春樹がいなくなっても、生きる目的を持つことはできる。

 

だがそれは決して、龍や春樹のように、

 

こういう生き方いいよね、と他人から褒められたり、ムーブメントになったりするようなものではない。

 

ただ人間が生きている、というだけで合理のような時代に、他人の合理は、もう参考程度にしかならない。ましてや龍や春樹は35歳の僕とは大幅に世代が違うのである。

 

同年代に龍や春樹がいたら良かったのかもしれない。

 

今、この年代にスーパースターはいない。つまり、何が言いたいかというと

 

自分で作り上げる未来しか僕の先にはないのである。

 

それは病気を持っている僕には覚悟がいることだ。

 

責任を取って生きていかなければならない。

 

龍や春樹だったらどう考えるだろうか、と考えられることも、通用しないなか生きている。

 

堀江貴文ひろゆきらの、ユーチューバ発想世代は、日本の精神性もくそもない。

 

ひたすら得することだけを考えているのである。

 

そういう時代に、役に立つのは古典だけかもしれない。

 

古典には春樹や龍にある思想の中での狡さがない。

 

古典はどこまでも古典で、いわば真面目な人が書いた真面目な書物なのだ。

 

今年のワールドカップは総じてつまらなかった。真面目な選手が揃うチームが勝った。

 

しかし、現代とはそういう時代なのかもしれない。龍や春樹が魅せた、感情でさえ狡猾で合理的なところから生まれる思想は終焉したのかもしれない。ちょうどメッシやネイマールのようなトリッキーな選手が敗退したように、これからは何の面白みのない、何の変哲もない、だけれども多くの知識を持っている真面目な人間が、上に行くだろう。そこでは、何ら諧謔味がなくて、龍や春樹を知っている僕からしたら、魅力のかけらもない人間がただ笑われずに賞賛されるのであろう。