がんばれないひと。

統合失調症歴9年。34歳男の雑記です。統合失調症の能力を示すのが目的です。

作家、又吉直樹に対して思うこと。

先日、朝日新聞に又吉の記事が載っていた。

 

又吉が過ごした高円寺での思慕が綴られている。

 

僕は又吉の作品を読んで面白いなあとは思わなかった。

 

そしてここでまた村上龍先生。

 

選評で的確なことを言っていた。

 

まったく新しいものは感じられないが、とにかく近代文学へのリスペクトがすさまじくあった、と。それは評価できる、と。

 

又吉が好んだ太宰は商売とは無縁だった。商売につながる発想とも無縁だった。

 

もしこう定義づけていいものならば、

 

近代文学とは不幸になる方法を描いていて、現代文学は生きるためのエネルギーを描いている。

 

又吉はうまく近代文学にあった不幸性を現代においても通じるユーモアに変えた。

 

というか自身が共感したものに対して率直に誰かに共感してもらうためには小説という手法はふさわしかったのである。

 

天才性はない。

 

それでも僕は記事にもあったように、

 

高円寺に住んでいて現実の厳しさと夢への希望の両方があった街であったというような文章には惹かれる。

 

その中でこんな文章があった。

 

「家賃二万円の風呂なしトイレ共同の部屋でエアコンがなかったから冬はかじかむ手で文庫のページをめくった」と。

 

僕だったらなんとかお金をやりくりして安いハロゲンヒーターでも買うだろうと思ったときに又吉の近代文学作家への思慕が頭によぎるのである。

 

そう彼らは述べたように商業的なものとは無縁だったのだ。

 

僕は又吉を読んだときに芸術性はないと思ったがそういった作家としてデビューするまでのエピソードには心惹かれるものがある。

 

僕の中で高円寺や下北沢や吉祥寺のイメージは完全に又吉のイメージと重なるようになった。

 

古着店、アングラのカフェ、ライブハウスなどはどれも学生時代に行ったことがあるが、又吉を読むと妙に懐かしく思えるのである。

 

あのお金なんかなくてもしゃれていることが第1の価値観であり続けた時代。

 

それはもう二度と戻ってこないだろう。

 

なぜならカネというのはまわりまわってクリエイティブな活動と直結する行動につながるトリガーになることがあって、

 

又吉はそれを意識しないなか生活してきたのだろうが、

 

僕はそれらを考えることがない生活の中にはいない。

 

だが合理では味わえない体験を、そしてそれは酸いも甘いも両方混濁したものであろうが、

 

それを経験した又吉の過去には惹かれるものがあるのは確かなのだ。

その惹かれる思いはきっと多くの僕のような合理で進歩の行動を指針とする人間に太宰をはじめとする近代文学が死滅したわけではないというもっとも端的な証拠なのである。