がんばれないひと。

統合失調症歴9年。34歳男の雑記です。統合失調症の能力を示すのが目的です。

時代が豊になってもテンパらないといけない人間の宿命。

楽をしたい。このモチベーションで仕事をしている人って少なくないと思います。

 

進化を遂げてきたのは楽をしたいからと言い切ってしまってもかまわない。

 

が、僕の結論は狩りの時代だろうが、人工知能の時代だろうが、人間の幸不幸は変わらないというものである。

 

狩りをしていた時代はもし現代のような時代をシミュレーションできるのであれば、それは現代の方が幸福だと言えるだろう。だが人間の寿命は100年である。

 

狩猟時代も人工知能の時代も経験したという人間はいないのである。

 

逆に言うと人工知能の時代も狩猟時代も経験したという人間もいない。

 

ただ人工知能の時代では狩りを経験することは可能である。でもそれはあくまでも必須の選択肢ではない。

 

どんな僻地にいてもポチッとすれば肉は届くのである。

 

狩りの時代の人間はひょっとすると昔は獲物をしとめる石器もつくれなかったことと比較して幸福を感じたかもしれない。

 

現代人は狩りの時代の人間と比較してポチッとすれば肉が届くのを豊になったと捉える。

 

つまり幸福の度合いは両者で変わらない。

 

では不幸を感じるのはどうか。これも同じような理屈で、現代人であっても、みんなが持っているものを持っていない場合は不幸を感じるだろうが、狩猟時代も相対的にみて、不幸はあったが、それは決して現代と比較しての不幸ではないのである。

 

そうなってくると時代の進歩というのは実はただの自己満足なのである。時代の進歩のために仕事をするのは、狩りの時代のテンパり具合と変わらないというのが資本主義社会である。

 

こういってしまうと身もふたもない話なのだが、

 

実際そうだと思う。

 

生きている間に固定電話がスマホになったくらいの変化の幸福は狩猟時代になかったとはいえない。

 

むしろ昨日よりでっかい獲物がとれたという幸福が明日も明後日もあって、幸福度は現代人より高かったかもしれないのである。

 

要はまわりの大多数が持っている価値観、共同体からみての幸不幸なのである。

 

で、このニヒリズムを脱却するためには方法は一つしかなくて、信じることなのである。

 

今、我々がえようとしている幸福はかつてなかったものと信じることにある。

 

たとえそれが上述したように嘘でも信じることに価値がある。

 

そういう意味で、現代人の社会はみようによっては哀しいし、みようによっては明るいものなのであるが、

 

僕が信じているのは、おそらくあと何年たとうがこの狩猟時代と現代の比較のように現代と未来の比較においても、幸不幸は大差ないだろうということだ。

 

その信仰が一番自然で楽なのだと思う。