がんばれないひと。

統合失調症歴9年。34歳男の雑記です。統合失調症の能力を示すのが目的です。

全てはバブル。

バブルが弾けたなんて言いますが、僕はこの世の中にあるほとんどのものがバブルだと思っていますよ。

なにかを面白いと思ったり、価値があるように思うのは、結局人間は寂しいからなのでしょう。

誰かと共有する面白いもの、価値のあるもので一過性のものがバブルなわけです。

でも少し考えればわかりますがこの世で一過性ではないものなんてないんですよね。美人でもとしをとるから一生美人なわけではないし、ずっと売れ続ける芸なんてものもない。昔面白いと思っていた物事はとしをとるにつれ、また環境が変わるにつれそう思わなくなる。

こういう移り変わりをいやいやながらよしとした人に僕が好きな作家、三島がいます。三島の功績は、言葉がこの文章でいうところのバブルであり、行動が実質であることを、一生をかけて示してくれたのです。

言葉というのはパフォーマンスでしかなく、行動は証拠が残るんです。そしてもっともこのパフォーマンスと証拠のギャップで人に印象を残せるのは、それがみんなはそうしないというレア度が高い場合に限る。

ちゃんとやるやる言っててやらない場合は多くの人にありがちなので批判されるけど、やらないやらない言っててやる場合は、もちろん善悪加味してですが、人の好意に触れることになるんですね。

三島は、上述したギャップをもっとも大きくとった。バブルは小説であり、実質は大義による死です。

このギャップがこれ以上は大きくできないという最大限のところなので、印象も強いわけなのです。

で、バブルは小説であるというところにニヒリズムがあるんですが、ふつうの人はバブルを、なにか浮き世の物事に投影すると思うんですよね。こどもを遊園地に連れていくとか、マイホームを購入するとかなんでもいいんですが。誰かがそれらの価値を認めないとみんなそれはやらないわけでしょう。おとうさんたまには遊園地に連れていってとか
あなたそろそろマイホームほしいわとかまたそれに類似したまわりの評価がなければ、誰もやらないわけでしょう。ただ言葉の芸術である小説は、
最終的に三島のような死なら、ニヒルとしかいいようがない。

それを真似ないのであれば、ある程度、ニヒルを抑えなければならない。価値ないと思っているものも、くだらないと思っているものも楽しいと思い込まなければならない。それが精神面でいうところの資本主義の悲しみそのものでもある。そしていくらかでも本当にこころの底から楽しむのであったら三島がとったようなギャップの大きさをいくらかでも大きくする手法をとらないと、寂しさに負けてバブルといっしょに自分自身も消滅してしまう。