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がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

サービス内容が過多な日本。

今、接客販売の仕事についているのですが日本はどうしてこうもサービス業の仕事内容が「自分が消費者だったらそこまでしてもらわなくてもいいのに…」といったサービスが多いのだろうかと考えてしまいます。

 

日本という国は一見優秀な国のように世界と比較すれば思えますが気づいている人は気づいていると思うのです。

 

「もっと他にみんなやらなければいけない仕事ってあるんじゃない?」と。

 

新聞を読んでみますと介護人材が足りないとかいじめでしょっちゅう誰かが死んでいるとか貧富の差が拡大しているとかまあいろいろありますよね。

 

一般市民が、それこそ働く世代の人間にモラルというか日本という国の問題の優先課題としてそういった認識があれば今ある日本のサービス業の大半はなくなるでしょう。

 

なぜならどう考えてもいじめで自殺するこどもの方が”かわいそう”だからです。

 

ただ一方では大量に自殺者がいて、一方では過剰なサービスを開発する人間がいて、そうやってうまく社会がまわっているという見方もできなくはない。

 

分業社会として国の優先課題の仕事に取り組んでいる人たちはやる人が少ないがゆえにハードな仕事を担います。その疲れやストレスを過剰なサービスをうけて、

 

また元気に仕事に行く。これはサイクルとしては別におかしくない。

 

 

ただそういう人の命に関わる仕事についている人たちが全員、民間の過剰なサービスを欲するかといえばそうではないし、またもっとも変なのは過剰なサービスを提供する側の人間が一歩組織の外を出たときに他の自分がかかわっていないサービスの内容に不満を持ったりすることです。

 

この理屈は、自分はこれだけのことを提供しているからまわりもそうでなければいけないという不思議な理屈なのです。

 

そういう人たちはそれが日本に特有の性質であることに気づいていない人も多い。

 

僕は接客販売をしていますが、どこか休みの日になんかの店に入って、店員に話しかけられたらうざいと思ったりするところがあります。

 

要は僕は別にサービス内容が、人間の根本的欲求の最低限のところの基準をクリアしていればそれ以上のことはどうでもいいと考えている人間なのです。

 

堀江貴文は洋服を買ったときに畳んでふくろに入れてもらうサービスにたいして不必要であると言っていたことがあります。

 

とかく自分にとっては、そんな服ごときで丁寧にくるまわれても、うれしくないし、むしろビニール袋にほいっと入れてもらえればそっちの方が時間がかからなくていい、と。

 

さて、これはどっちが少数派なのでしょう。

 

僕の憶測だと、丁寧なサービスをうけたいと思っている人は先ほどものべた日本特有の高度なサービス業社会に洗脳されているのです。

 

もしなにかしらの事情でたとえば中国の奥地で生活しなければならないとなったときに、隣の街に数軒だけある店で日本なみの過剰なサービスを受けたいと思うことはないのではないかと思います。

 

その分のエネルギーや人材やお金を、人の命にかかわる事業の方へ全部まわすのが賢い視点なのですが、そういった視点をもつ、プラトンが唱えたような万能の人を国のトップに置くというのはなかなか非現実的なので、僕もやむをえず接客販売の仕事をしていますが、

 

そのあたりを意識している人間は、一見少数かもしれないですが、どっちが普遍的かと申しますと僕が述べたような考え方の方にあるのは間違いないでしょう。