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がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

アドラーの教えはロマンを排している。

昔、アドラーに学ぶよくいきるために働くこと、みたいなタイトルの本を読んだのですが、このシリーズ、売れているみたいで、違うバージョンの同じ作者の本だったと思うのですが、そのなかの一文「構えさえできていれば人間はどんな相手ともパートナーになれる」

 

という箇所が印象に残っています。

 

というか僕は大学生ぐらいのときから、アドラーなんて知らなかったけれど、うすうす人間ってそうなんじゃないかと思っていたものです。

 

ほら、戦時中なんて相手を選べないじゃないですか。それでもうまくいっていたというか今より離婚率低かったですよね。

 

もちろん時代の風潮としてたとえば離婚なんて恥ずかしくてできなかったとかはあるかもしれないですが、それ以上にただたんにふつうにうまくいっている家庭がたとえ見合いでもあったのじゃないか。

 

そういうことを考えていると、理想って今、なんの分野でもありますが、理想は理想のままでこない方がいいという説を唱えることができる。

 

というのも理想は理想だから、理想が現実にやってきたときにそれはすでに理想じゃないんですよ。

 

現実に変わるのです。そしていったん理想が現実になるとまた別の理想ができる。

 

それだったらはじめから現実のままでつきとおしていくのも面倒をはぶくという点ではそれそうおうに効率的なんですね。

 

でも人間の寿命が長くなってようは無駄なことを考える時間が増えた。あるいは平和になってからそういう時間が増えたと唱えられなくもない。

 

もちろん救えなかった命が救えるようになったとかは好ましい形での理想の実現でしょう。

 

ただ僕が主張したいのは人間は無駄なものまで理想を現実にしてしまう生き物で、これとあれだけ理想を現実にすればことうまくいくものを、あれこれなんでも欲望のままやってしまって選択するときに制限みたいなのがないんですね。

 

これは人が持つ不幸性だと僕は思います。

 

いつでも人間の愚かさを戒める作品というのはあります。

 

それらはみようによっては人間の不幸の象徴であると言ってしまうとニヒルになるけれど、ことさらアドラーの教えに関しては僕はこんな推測をしてしまいます。

 

アドラーの教えの本は確かに売れています。ただそこにあるように、どんな相手であれ、結婚に関していえば、結婚できるのが人間であり、そうできないのであれば自分の人間性がたりないことをまず問題視して、磨き上げたあとでは生涯未婚率は改善すると。

 

しかし、それがまさに実行されるのであれば、テレビ、漫画、ドラマ、映画、なんでもいいのですが自由恋愛を謳ったというか根底にそれがある作品については価値観を相容れない。

 

つまりテレビなんてみない発想になってしまいます。テレビをみて影響される人たちの方が本を読んで影響される人たちより多い証拠なのですね。

推測が続きますが、結局、人間は楽な方、自由な方にどうしたって流れていくわけなんです。

 

ですがそもそも自由というのはなんなのでしょうか。

 

唐突に記事を終えますが、アドラーの教えにしたがって生きていった人間は我慢とか忍耐とか本質を見抜くとか客観性があるとかあらゆる人が生きていく上でそれこそ自由になるための素質が備わるわけなんですね。

 

そう考えると制限のあるなかでの自由、現実にしばられた限りなく現実に近い理想の方が、遠くにある手放しで感じられる自由や、手に届きそうにない神々しい理想よりも、よりよいものだったりするんですね。そういうことに多くの人間は気がつかない。