がんばれないひと。

統合失調症歴9年。34歳男の雑記です。統合失調症の能力を示すのが目的です。

村上春樹が近代日本文学を嫌った理由。

騎士団長殺し』なんかでもその理由が明快にみてとれます。

 

村上春樹は何かの専門家に興味がないのです。不幸性を扱うだけの文学、人間のおかしみだけをとりあげた文学、社会問題にまっこうから改革しようと取り組んだ文学、さまざまありますが、

 

どれもバランス感覚という観点では偏りがあるのを認めざるをえなかった。

僕はこういう話をするのが好きなのですが、ここにあるビジネスマンと文学者がいるとします。

 

彼らは同じ新幹線にのっています。それも東北新幹線だとしましょう。

文学者は、「トンネルをくぐり抜けると雪だった」というような川端の感性をもし新幹線が実際にトンネルをくぐってそして秋田あたりで雪が降っていたならばその言葉を思い浮かべるのではないかと思います。川端の世界を追随するわけですね。

 

ところがビジネスマンだとそうはならないかもしれません。

 

ビジネスマンはたとえ川端の文章を知っていたとしても、それよりもパソコンで何か資料をつくっているかもしれませんし、この新幹線内のサービスで改善すべき点はないかとあたりを見渡して、雪やトンネルの存在に気がつかないかもしれません。

 

この例でいうところのビジネスマンと文学者は相容れないものなのです。それはなぜならば、彼らがそのおのおのの分野の”専門家”であるからです。

 

専門家である以上、生活やものの見方や価値観までもが専門家になってしまいます。

そういう知識は昔の日本ではあがめられました。

 

先生と呼ばれるためには何かに秀でた知識がないといけなかったんですね。

 

ところが昨今注目を浴びているリベラルアーツ的なものの見方は専門性を加味しつつそれを何に応用するかで技量を問われる知識の類なのです。

 

村上春樹がつくっているのはこのリベラルアーツ型の文学です。

 

これがまさに現代であり、おそらく村上春樹はあんまり普段の生活の中で何かを否定する、という感覚がないのではないかと思います。

 

かつての近代日本文学では、必ず作家はなになにが嫌いという主張をする作家がいました。だいたい大家はみんなそうでしょう。

 

三島の家具嫌い、太宰の運動嫌い、川端の機械嫌い、あげていったらキリがないほどみんな何かを否定し、それぞれの専門を極めていった。

 

あるいは文学のテーマを極めていった。

 

ところが現代はすでにテーマが近代においてつくられつくした中で生きている意味を見出さなければなりません。

 

そのために生き延びる方法は、何かと何かを応用して創り出されるもの、に限ると断言してもよい。

 

誰かが言っていましたが、急に新しいことができる人はほんとうに天才かバカかのどちらかなので、そういう人の出現は極めてまれなのです。

 

村上春樹は御存知、努力肌の作家です。

 

おそらくいくつになっても価値を否定せずにいったん受け入れて、どういうものかを理解する努力を怠っていないのでしょう。その努力は怠らない方が、世界は広がりますからね。

 

ただ一点、太る=醜い、の価値観だけはあるみたいですが。何かのエッセイで太るときれのある文章は書けないとかアメリカに住んでいたときに異様な太り方をしているおばさんをみて、どうしたらあんなに腰にふとんをまくような太り方ができるのだろう、みたいなことを言っていました。