読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

美意識の有言実行にはついていけない。

自分が持っているというか信じている価値観ってあるじゃないですか。

 

僕は人と会うたびにそれらが少しずつ変化していくのを感じます。

 

これはまだ若い年代のくくりに入る証拠なのかもしれません。

 

歳をとると自分の生き方を、たとえばそれまで50年間で築き上げてきたものを否定されると人間はいやな気分になる。だからそうは考えずに自分がとってきた道は正しかったと肯定し、明るい老後を迎える。

 

健康上はそっちのほうがすぐれているように思うのですが、僕はなんという言葉で表現したらいいのかわからないのですが、その価値観が歳をとっても揺らぐような誰かに会いに行く人が、賢者というかあるべき道のような気がしています。

 

僕は実は世の中にいる人は全員なにかしらの病気であり、なにかしらの哲学者であるという認識を、先日、お会いした人のお話をきいて抱きました。

 

僕は確かに統合失調症ですが、そういう意味においてはマイノリティではなく、病名がつけられるくらいなので、マジョリティなのかもしれません。

 

健常者には健常者なりの悩みとか苦悩があって、そういったものが統合失調症患者には共通のものとしてあるものもあればないものもある。

 

統合失調症患者からしてみたら、健常者の悩みが病的に思えることもある。

 

世の中の大きな犯罪をおかしている人間の大半は統合失調症ではありません。

 

話が変わりますが、先日お会いした人は、女性の方なのですが自分の遺伝子を残すのが嫌だからという理由でこどもをつくらないと宣言していました。歳は40前後の方です。

 

僕はそういうデリケートとよべるような類のことを宣言する人は、実はそこに幸せを感じていないのではないかとかんぐってしまいます。

 

このあたりは言語哲学の問題なのでどうも専門家ではない僕は直感でしか言えないのですが、

 

自分が本当に心のそこから幸せなときっておそらくそれを口にしないものなのではないかと。

 

僕の認識ではそうなのです。

 

だって何かしらの思想のもと、こどもを作らない選択をするのはそれが自分にとって利益だからでしょう。

 

そういう利益はふつう公言しないし、あえてそう宣言しているところに不幸性もみてとれてしまいます。

 

みんな他人と結局は自分を比べているわけなんですね。

 

でも僕は価値観が揺らぎました。

 

なぜなのかはあまりよくわからないのですが、おそらくそのこどもをつくらない宣言に美意識をみたからだと思います。

 

誰かの美意識を垣間見る瞬間は、なんというか踏み込んではいけない領域のような感じがします。ただ美意識の有言実行には僕はついていけません。

 

有言実行というと肯定的な価値観のように広まっていますが、口ではああ言っているけれど、行動をみるとこんなところがあるよね、のパターンに僕は憶測を働かせてあれこれ現実にはそうじゃないかもしれないけれど、可能性としての捉え方のほうに生きている喜びを感じたりする。

 

僕は自分の意見を最後にその方にこう伝えました。

 

「僕は統合失調症で遺伝する影響もあるのでこどもをつくるとしたら、生まれたこどもが生きていることを全肯定して生きられる世の中であれば、喜んで結婚してこどもをつくりたいと思うのですが、そういった社会は永遠にこないので、結果的に理想の前に敗北するのではないかと」

 

僕の場合、これは美意識ではなく、ただ率直に思っていることを述べただけです。

 

そしてこうも伝えました。

 

「そういった社会の方の偏見や軋轢をなくす活動は非常に立派だと思っていますが、僕は今のところそういった障壁は障壁だと認識して、その中で生まれてくる文芸作品だったり科学上の発見だったりの方に人間の未来を感じます」と。

 

その方は、魅力的な笑顔でこういいました。

 

「そうするとその軋轢とか障壁が、生まれた作品から振り返ってみると輝いてみえますね」と。

そのとおりだと思います、と僕は答えました。