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がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

正負の法則とサイコパス。

正負の法則を味方につける秘訣は以下の三つです。

一つ目は、世間の目をそこまで気にしないことです。

 

二つ目は、統合失調症のような不可抗力な病を持っていることです。

 

三つ目は、独りでいることに耐性をつけることです。

 

これだけそろえば、正負の法則は、それ自体が楽しいものになります。

 

もちろん、一日の中で、不安や自分の価値がなくなるかもという瞬間から逃れることはできません。

 

そのときは何度か書いているように耐えることです。

 

その時間さえ耐えられれば、あとは自然に有意義な時間がやってきます。

 

ところで少し観点は変わるのですが、『サイコパス』という本を読んだときに、

 

こんな、相手がサイコパスかどうかを見定めるゲームがあるそうです。

 

まず自分と相手で第三者から一万円をもらって持っているというところからゲームははじまります。

 

自分が8千円を取って相手に二千円を渡す割合で相手に文句がなければ、相手は二千円を得ることができます。

 

もしこちら側が提示したたとえばその8:2の割合を断ればその一万円はまるまる第三者の手元に返ってしまうことになります。

 

ここでサイコパスの人はどんな割合であっても、とりあえずお金(利益)が得られる方を選択するため、絶対にどんなにその提示が不公平であっても、断らないのだそうです。また言い換えるとふつうの人は不公平だ!と感情をあらわにして、結局、一銭も手にできない、というわけです。

 

僕はこのゲームを見知ったときに、なんだかサイコパスってむしろいい習性だなと心底思ったものです。

 

このゲームが示すところを還元すると、要はサイコパスの人間は、自分の現実的な利益を重視する。

 

で、こういう発想をする人間の方が僕なんかは好感が持ててしまうんですね。

 

だって、利益がほしいのはみんなそうじゃないですか。

 

感情がこのさい、無意味だと思いませんか。

 

これは別にお金じゃなくても、いろいろ分析できる事象なんですね。

 

たとえば、食べ物だとしましょう。

 

前日の夜ご飯を抜いた人の朝ごはんだとしましょう。

 

ある夫婦がいたとします。この男の方が、上記の例でいうところのサイコパスです。で、女の方がふつうの人だとします。この夫婦は前日から喧嘩をしていて、夜ご飯も食べずに二人ともふて寝したとします。理由はなんでもいいのですが、なにかいがみあっている。

 

朝、起きて、女の方が、男のなんでもないふるまいに対して、敏感に喧嘩のことを想起してしまって、怒り出している。でもそれはもう朝ごはんを一応したくしたあとだったとします。男のそのふるまいにはなんら客観的にみて問題はなく、ただ女の方の感覚で怒りをかんじとってしまった、とそう仮定しましょう。

 

サイコパスである男は、その瞬間にこう思うわけです。

 

「今、このときに自分の行動に非難される点がなかったとしても、ここでそう反論して怒ってしまうと食べたい朝ごはんが食べられなくなるかもしれない。だからいったんここは謝っておこう。そうしてとりあえず空腹をちゃんと満たす”利益”を得よう。またそうやって空腹さえ満たせば、本筋とは関係ないどうでもいい喧嘩もなくなるかもしれない」

 

まあ手前みそな例なんですが、僕はこういう発想する人は平和主義なんじゃないかと思うんですね。

 

いったん自分の主張が折れたとしても、自分の利益ひいてはそれが他人の利益にもつながる、まさに”見えない利益”を計算しているのです。

 

で、正負の法則ってつまりそういうことなんです。

 

あらゆる物事が起こらなかった方の理由を、勘案する。

 

多くの人は、現実の起こった事象にだけ何かしらの感情を抱き、何かしらの対策をたてたりしますが、たとえば上記の例の男の場合だと、朝ごはんが食べられなくなることによるお互いの弊害を計算して本意ではなくても、折れるだけのことができる。

 

それは内心、いやなものなのです。ほんとうは非難されるいわれがないのに、こちら側から謝るというのは、ストレスがたまります。

 

僕はそういうとき、やはり神様はいるんじゃないかと思ったりします。

 

そうしてそうやって自分でためたストレスのかわりに起こらなかった事象があって、よかったと思っている自分がいる。

 

そのとき気づくか気づかないかの違いだけで、人はちゃんと神様を発見しているわけです。正負の法則というのはそもそも人智が及ばない不可抗力な力のことですから、神様みたいなその行動をみている番人のような存在は想定できる。そうなると道徳心がない傾向にあるサイコパスも、道徳心ができて、むしろサイコパスはそうあるべきという褒められるような人物像になると想像できるのですが、どうでしょうか。