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がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

人間の器はどれだけ生きている間にむなしいと感じたことをしたかで決まる。

人がとる行動にそんなにいちいちこうだから、みたいな感じで理屈をつけてなにかするというのが僕は苦手です。

 

衝動性というより、思いつきで行動することも多々あるので、予定とかも立てづらいんですね。

 

朝、起きてからの気分で行動した方が余分な負荷がかからないじゃないですか。

 

でも大多数の人は、手帳に書かれた予定のとおりに基本的に動いているので、明日にならないと気分的に行くかどうかわからないみたいなのは、生きづらいんですね。

 

で、昔の人ってそんなにスケジュールなんて立てなかったと思うんです。それこそ、たとえば農民の場合、収穫ってそこまで思い通りに行くものじゃないですよね。自然災害とかあるし。

 

あるいは狩りをしていたような時代にまでいくと、彼らは人間として様々な文明、それこそ文字だったり、道具だったり、言葉だったり、火を使っていたと思うんですが、何日もあとの食料とかを計算できたかというとそんなことはない。

 

一日一日をしっかり集中して獲物をとることに必死だったように思われます。

 

人間が、計画的に食料や住居をコントロールできた歴史の方がまだ浅いわけです。

 

それで、どっちが幸せなのかはわからないといえばわからない。

 

確かに飢える心配は今の日本だと滅多にないでしょう。

 

でも衣食住が完璧にそろっても、みんながもっと高次元の欲求がある限り、それらに合わせて自分の欲求も高まっていきます。

 

そしてそれが実現できなかったときにショックをうけるのです。

 

このときの不幸は、「ああでもとりあえず飢えずに明日も生きられる」みたいなふうに思わないものです。

 

考えてみれば不思議で、人間はあれこれ推測したり、比較したりすることができるのに、

 

そういう高次元のところにある不幸を経験すると、それでも中東の難民よりはましだ!とか思わないんですね。

 

だからその不幸は、明日飢えるかもしれないと獲物を取り逃したハンターの不幸より軽いはずなんですが、なんだか等価かそれ以上に不幸のようにふるまったりするのが人間です。

 

多くの文化人はここに違和感をみます。

 

堀江貴文は、「どうせ事業に失敗しても、生活保護で最低限度の文化的な生活は保障されているわけだから、死にはしない。それを思えば、行動しない方が変だ」

 

みたいなふうにいい、

 

三島由紀夫は、「戦時中、もしかしたら明日死ぬかもしれないと思っていたときになにかで味わう幸福は、記憶の中で幸福だったわけではなく、確かにそういうとき人間は妙に幸福になる」

 

とこう言うわけです。

 

これは極めて、まっとうなところをついている指摘であるのに多くの人はそういう発想を不安とか怖いという理由で退けます。

 

でも本当のところ、人間の切な幸福や不幸は、そうやって退ける人たちが理解できないような行動から得られるものが多いはずなんです。

 

ちょっと考えてみればわかるとおり、安住しきった場所でずっといると、そんなに危機感みたいなものがなくなりますよね。適度な緊張感がないとローマ帝国の衰退の実態みたいになってしまいますよね。

 

そのバランスの中で生きているわけなんですが、そのバランスの中で生きているということすらちゃんと伝わるように説明できた方が、楽なんです。

 

つまり、不言実行みたいな美徳もあるんですが、現実には有言実行が人付き合いの中で生きる際には楽。

 

最近、気になっている言葉は、「不言実行などというがそれは有言実行の自信がないだけではないか」という言葉です。

 

自信がないだけ。そういわれるとそうかもしれません。でも有言実行を成し遂げたあとで、それがたいしたことではないとさとってしまった場合、それそうおうにむなしさもあるんですけどね。

 

僕はむなしさは誇りだと思っています。人間の器はどれだけ生きている間にむなしいと感じたことをしたかで決まるという持論があるので、

 

有言実行と不言実行を使い分けています。ここもやはり中庸をとるんです。

 

それは器用なことではなく、いかに広い目でもって生きるかというちゃんとした教えなんですね。

このブログでも散々そのテーマで投稿しています。

 

 勉強だけじゃなくて遊びもした方がいい。仕事だけじゃなくて休むことも大事。スポーツもいいけど、将棋や囲碁もいい。

 

不味いものもおいしいものもどっちも食べる。美女も愛すし、不美人もかわいがる。

お花もいいけど、カラスが散らしたゴミの山も趣ある。

 

...相反する二つのことがらは、どっちもやる、というのもまた一つの教えです。