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がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

賢人説。

「信念に反していても、とりあえず相手の言った通りにやってみて得られる利益を考慮する」

 

いわゆる先生と呼ばれる作家や教授や専門家の人たちは、既に立場というものがありますから、言わなければいけないことがあります。それらが彼らの仕事です。公に権威をもって発言し、耳を傾ける人の一助としなければ商売にならない一面はあるでしょう。

 

しかし、呼称の仕方は微妙なところなのですが、一般に先生と呼ばれる、哲学を広く知識として知って教える人だけではなく、哲学を実践する人間は、そうばかりとは限りません。

 

この、哲学を実践する人間は、一般に哲学者とは違うかもしれません。それこそ駅前で見かけるティッシュ配りの人かもしれませんし、路上のホームレスだったり、あるいは実際に先生と呼ばれる職業に就いている権威ある人の中にも当然いるでしょう。

 

これらの人たちの中で、何が僕が定義するところによる哲学を実践する人かそうではない人かの線引きになるかというと、それは大多数の価値感のみによっては絶対に行動をしない人と定義できると思います。

 

そしてこうなってくると最近僕がよく考えることなのですが、その行動をとった理由の説明が、非常に難しくなるわけなのです。

 

要は言語化できないものになる可能性が高くなる。もしそれが言語化できて、第三者になるほどね、と納得してもらえるのであれば、その哲学者の行動はすでに多くの人に知れ渡っている発想になっている可能性が高い。

 

伝えられる情報のコンテンツは、それが多くの人が知らなければ知らないほど価値が高まりますから、世の人のためと貢献度を高くしたいのであれば、いったん人に説明ができない、うまく伝わらない、言葉にすることが難しい行動に出なければいけない性格が備わっていると言えるでしょう。

 

それを実践できる真の哲学者は非常に苦労を伴うものと想像できます。そしてこういう人の苦労は、表には出てこない。そもそもそれが出るかもわからない前提があるなか、結論が出るまでは、誰かに共感してもらう喜びを考慮していないので孤独極まりないでしょう。

 

多くの人たちは表立った苦労話を苦労だと思います。睡眠時間一日数時間であとの時間は働いて、死んだ親の借金を返さなければいけなかったとかその手の苦労話はたいへん人によく理解してもらいやすいです。

 

僕はこのよく多くの人に理解してもらいやすい苦労は、不幸中の幸いのような苦労だと思っています。借金を返している最中に何の邪魔も入りません。多くの人はその苦労を理解し、はたからみて応援します。

 

しかし、そうではない、目に見えてはわからない苦労もこの世の中には存在します。

哲学を実践する人間の範疇に、想像の中で考えられる賢者がいます。相手の主張を飲み込んで(それを悟られないようにまたそうできるようにする何かしらの苦労が考えられます)、実際そう行動し、それによって得られる利益を考えます。

 

自分が持っている価値をいったん”無”にできる人は強いんです。よく映画やドラマなどで、いさかいで憤る場面があります。自分のプライドなどを鑑みて、腹に立ったりして、それを言葉に出したりします。でも本当は前の投稿にも書いた通り、口論によってのみ生まれる利益などたとえあったとしても、所詮、口でのことなので、どうでもいいものなのです。

 

 口論にはプライドが関係すると書きましたが、想像の中の賢者は、そういった人情を持ちません。どの人とも折り合いをつけて、相手に合わせた価値観の中で向上を得るのです。全てをその後えられる利益のみに着目している点でこういう人物は合理性の権化ですが、現実にはそんな人間はいないでしょう。

 

でも想像上あるいは創造上の人物として設定することはできるし、またいるかもしれない可能性を否定できる証明もないわけなんですね。そういった空想には何か感じ入るものがあります。