がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

村上龍はJPOPを聴かない。

このブログでもいくつか投稿しているとおり、僕は村上龍に影響を受けた。

もしこの世に真の教育者と呼べるような人がいるのだとしたら、それは”文学”という学問にすらなっているジャンルでトップにいる村上龍こそその一人である。

文壇の長にはそういう役割がある。

真の教育者とは正しいことばかりを言う人ではない。

弱いものいじめはやめなさい、たくさん勉強しなさい、よく運動をしましょう。

 

こういった言葉の額面通りの意味とは無縁である。

 

ちょうどそういった標語のような歌詞が数多くあるのがJPOPだ。村上龍はJPOPを聴かないと公言している。

文学はノーベル文学賞という賞があるくらい、人の上に立とうと思う人ならば無視できない芸術である。

僕は芸術がなにか昔はよくわからなかった人間だ。ずっと、恋愛テレビドラマにあるような葛藤や表情や泣き所などが感動に値すると思っていた。

 

そう、馬鹿だったのである。

 

25歳くらいまで、いわばここであえて象徴的に名付けてしまうとJPOP信仰みたいなのがあった。強いて芸術とは何かを語り出すとすると、それは自殺やその他の要因で夭折した人を指すのだと思っていた。

確かにそういう人たちも芸術家であることには間違いない。優れた作品を生み出し、”人間嫌い”のような性格をみせつけ、ある人は若くて美貌があるうちに死んでいく。ただそれだけではまったくないという世界を教えてくれたのが村上龍だった。僕は26歳になって統合失調症を発症した。発症してから村上龍の作品を全部読んだ。

 

そこには、僕がそれまで知り得なかったいくつかの人が生きていく上でのキーワードがあった。

 

進化というのもそうだし、合理的というのもそうだし、倫理観を無視しても存在するユーモアもそうだし、実存主義もそうだし、ヒューマニズムもある。

僕は一つの仮説を立てることにした。

 

「JPOPに心酔する人間も、実は内心冷めている。」

 

それはつまり、象徴的に言うと、この社会に生きている人間は、JPOPを一つの、それも膨大に高尚な作品があるうちのたった一つの種類の大衆芸術であるという認識があるはずだ、という点だ。

 

僕は今でもJPOPを聴くのだが、熱狂はしなくなった。当たり前のことでもっと高みにある、もっと人の心の深部に届く芸術を知ったのに、JPOPこそ全てのようにはならないし、JPOPな生き方を手放しで肯定しない。

 

JPOPにある歌詞は以下のようなものが多い。これらの言葉が多用されていれば曲を聴かなくても歌詞だけでJPOPだとわかるようになっている。

 

愛してる、夢だった、希望はある、前に進め、負けるな、明日は、きっと、勇気、走れ、大丈夫、涙…

 

これらはちょうど僕が上述した標語のようなものだ。

仮説を検証するために、僕はこんな空想をすることがある。

 

愛や夢に代表されるキャッチーな言葉で耳障りの良いテンポの曲をつくっている歌手や作曲家は、実はドロドロの愛憎劇やじめっとした文学や底なしに暗く残酷な戦争を肌で知っていて、そのアンチテーゼとしてそれらを生み出したのではないのか。

 

つまり歌っていたり作っていたりする人間は、裏を知っている前提だ。

 

こうであればあれだけのポップさを生み出せるのも理解できるし、

 

またそのような人間は実に尊敬に値する。

 

実際に歌を歌ったりつくったりしていない人間でもそのように分類できる。そう捉えていた。

 

だが、現実はどうだろう。僕はそういう仮説のもとに人生を生きていくのが好きだし、また統合失調症ではない健常者のみんなが力を合わせてつくっている社会だ。

 

きっと尊敬に値する人間がたくさんいる、自分なんかそれに気づいた歳が遅すぎるような気がするし、統合失調症は仕事が現状、単純労働や軽作業しかないくらいに知能や能力という面でも下にみられているところがあるし、要は健常者のお前らはもっともっと僕が知らないことを知っているんだろう?とそういうへりくだったような姿勢でいたのだが、

 

僕は発症してから、仮説がその通りだった、という喜ばしい事態になったことがない。

 

要はJPOPが浸透しているのは、そのまんまの意味においてそうだったのだ。

 

愛や夢を携えて、みんな家庭をつくり、仕事をして、おわったらセックスをしている。

 

そこにいったい何があるのだろうかというような普遍化できる疑問を持たないまま、多くの人が生きているのを知った。

 

身近にいるSNSにいる一部の人間やハロワの職員、かつてのバイト先の人、民間の会社の面接官、これらの人たちが自分より何か多くものをもっているとしたら、それはお金と精神的健康だけだったのである。

 

僕は自分が馬鹿だと気づいてそしてちょうどその時期に統合失調症を発症してからずっと健常者に憧れを抱いていた。彼らは何かを持っていると思っていた。

だが繰り返すが、彼らがもっていて僕にないものは、お金と精神的健康だけだったのである。