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がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

今の時代、待って得することなど何もない。

誰かが指摘していましたが、日本人は長蛇の列を厭わなすぎる民族だそうです。

 

僕もそれをよく実感します。

 

青山とか表参道のあたりを数十メートル歩けば、流行の店、テレビとかで紹介されたような店に、必ず行列ができています。

 

メディアに掲載されたラーメン店とかもそうでしょう。みんな立って並んでいます。

 

僕は、待つことが嫌いです。まあ好きな人などほとんどいないでしょう。

 

でも僕はその中でもずば抜けて待つのが嫌いな性分です。

 

これはなんでかな、と考えたときに最終的な大きな背景の要素はテクノロジーの進展だと思います。モータリゼーションという言葉はもう死語かもしれませんが、今でも車の存在は大きい。車とはもともと乗る楽しみなどよりも、利便性をもとにつくられたはずです。

 

それからインターネット。これはちょっと想像もつかないところで各段に昔と比べて、

ものごとがスピーディーになりました。

 

手紙、FAX、メール、そして今だとLINEというのはすさまじいスピードの進化でしょう。

 

でもこの進化の過程においても、人は不合理な行動をとる。つまり待つことです。

 

ラーメン店は、すぐれた食材や集客のための宣伝それらに車、ネット、これらの存在は大きいはずなのに、結果的においしくて人気になったばっかりに、人が列をつくって待たなければならないのは、皮肉ではありません。僕はこれは正負の法則の人の感情を介さない版だと思っているんです。

 

ちょっと前のニュースに、24時間営業は必要か、みたいな見出しで、小売店が、昔ながらの商売時間に戻す発想をしているのを知りました。

 

でもこれもいっしょで、そうすることによって、利益を得る人と不利益を得る人の層が変わるだけで、みんなの幸福度の総和みたいなのは多分あんまり変わらないと僕なんか思っちゃうんですね。

 

何が言いたいのかというと、”利便性の時代の中にも必ず不便や不合理を社会は内包している、することになる。”

 

そう言いたいんです。人間がもともと不合理な生き物ですから、いくらハード面であれこれ画期的になにかができたとしても、ソフトはアップデートされなければ、という話です。

 

だってそうじゃないですか。僕たちは今、あらゆる文明の利器は当然のものとしてうけとめ、使用している。

 

それがないときの不便さを感じるよりも、それがあった上での不便さを感じることの方がよっぽど多い。

 

そういうことを考えていると、僕はすっかり無意味な不便さに侵された人間だと自覚するんですね。

 

あらゆる物事をスピーディーにやりたいという願望があって、今の時代、それにのっかった方がいい。

 

たとえば僕は今日、二人ならんでいる銀行のATMからお金をおろさなければいけないのに待つのがいやでスルーして、やみくもに目的地までなんとなーくで歩いて行って、近くにコンビニがあったので入ったんです。そしたらそれミニストップだったんですが、僕のメインバンクがみずほで、なんで銀行のATMでお金をおろそうとしたかというと手数料をとられるのがいやだったんですが、なんとミニストップはみずほと提携していて、ATM手数料がただだったんです。僕はそれを知らなくて、いいこと知ったと幸せになりました。

 

これは一例でしかもあまりに例えが低次元ですが、高次元でも待つのをすっとばして目的地(この場合は人生の目的地までもふくめて)までひたむきに行動をした方が、代替の情報が入ることがあって、そうやって生きた方が幸せじゃないか。

 

でも僕は実はそこまで自分の行動を正当化はしないのです。

というのも多分、それは僕が待つのが嫌いなだけで、待つことがそんなに苦ではない人にとっては待つ人生も待たない人生も等価でしょうから。

 

ただ大方の人は待つのが嫌いだと思います。そしたら待つことによって等価になることはあっても、待って得することなど今の時代、何もないんじゃないかと思います。