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がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

優れたデザインというのは誰かの幸せにつながるか。

東京デザイナーズウィークの展示会で子供が事故にあいましたね。

 

死んじゃったみたいですが、この子がなんの犠牲者なのか僕にはよくわかりません。

たとえば飛行機事故の被害者。これは資本主義の犠牲者です。死んだことによって飛行機やそのまわりの環境は改善され、今後事故防止のために社会は動くでしょう。でもこの子供の死は何の役にたったでしょうか。

 

デザインというのは流行りみたいなもので、ウェブデザイナーをはじめ多種多様にデザイナーが存在します。

 

でも僕は昔から、「他のニュースに比べてどうでもよくね?」

 

とずっと思っていました。

 

それはあのオリンピックのロゴのぱくりかぱくりじゃないか問題があったときに顕著に僕の印象に残ったのです。

 

あれは一騒動になったみたいですが、正直よくわからんのですよね。

別にぱくりであろうと誰も死なないし、選手の士気が落ちるとかはまったく関係ないし、一体だれの利益になるのだろうと考えたところ、要するにデザイナー側の自己満足なのではないのかと思っちゃったんです。

 

もっと詳しく話すとあれはねずみ講みたいなものです。確かにデザインというのは誰かが考案しなければならない。そして考案した人にはお金が入る。だから優れたデザインを競合して、業界ができるわけですね。その業界内での市場の資金をデザインに関わる人たちが奪い合っているんです。

 

たとえばこうしたらどうだろうか。デザインに関わる人たちがひとまず考案したデザインを順繰りで採用する。それはデザインに関係ない人たちからすると良いと思われるデザインもあれば気分を害すものもあるだろうし、そもそもデザインなんてみない、つまり概念すらないという人もいるだろう。

 

ああいう国の権威が発信されるものは平等の概念でいいと思うんです。

ぱくったかぱくってないか騒ぐ前にもっと解決しなければいけないことがデザイン以外に多々あるんじゃないかと思っちゃうんですね。

 

たとえば君が代という国歌。あれの成り立ちとか興味ある人ってそんなに国民の中でいないんじゃないかな。もっとこういう音楽の方がいいとかそういうふうにならないですよね。それと同じような感覚でいいんじゃないかと。

 

で、話が戻りますが、昨日死んだ子供は、残念ながら犬死です。

 

デザインのこれからの未来のために犠牲になったとかは的外れですし、

ひねくれた見方をすると、どうだこのデザインすごいだろう!的な調子にのっている輩の、根本的なもっと大切なものが世の中にはたくさんある、というのをわからせた死としか考えられないんですね。

 

結局、そういう大切なところを見落としている思想のもの、この場合はデザイナーですが、そういう人たちが調子にのったところで正負の法則が働いたとしか考えられません。