がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

歳をとるにつれ、神様仏様を信仰する効果は、神社や寺まで歩くという運動にあると知る。

僕は数年前までけっこうな急な坂をのぼってまわりが畑だらけの場所にある神社まで願掛けに行っていたことがあったんですが、もうしなくなりました。

 

願掛けといっても、大したことはありません。病気になった当初は本当に身体と精神が心配だったので、「いきなりわけのわからない考えにとらわれて今日これから車とかにひかれませんよーに!」

 

と本気で祈っていたのです。そんな20代でした。

 

そのときは信仰をはっきりと行動にあらわして持っていました。あんまり人として正しいというかあるべき振る舞いをしてこなかった20代前半までの自分だったので、因果応報としてばちがあたったと真剣に悩み、ちゃんとお賽銭を入れて神様に祈っていたのです。

 

でもいつからかそういう習慣があったのにしなくなりました。いつからかはわかりません。はっきりとした記憶はないのです。ただその行為をしはじめたときからどこかむなしいという感覚はあったのですが、僕は基本的にどこに行ってもむなしいと感じる癖みたいなものがあるので、大して気にもとめず、坂を連日のぼったりしていたものです。

 

それで別に誰に伝えるでもなく、そういう習慣をもったまま、通院しに病院に行って、お薬をもらってきます。そして担当医とも話をして、無事に診察がすんで、薬局で薬をもらって家に帰り、夜寝るまえに、「ああ、やっぱり、信仰という正しい習慣があるとこんなにも穏やかな感情で夜を迎えられる」と

 

自分の信仰の正しさを確信したりしていました。

 

でも書いたとおり、いつからかしなくなったのです。それはなんでかなと思ったことがあります。回復したからとかただ単に他にも用事ができたからとかいろいろ挙げてみたんですが、一番そうだろうなと目星がつくのは、おそらく歳相応に読書をしてきたから、が妥当なんです。

 

本を読むという行為には、内容が三文でない限り、人を論理的にする効果があります。

 

そう調べたわけではなく少し考えればわかると思うんですが、人がなにか思考するときには必ず”言語”を用いています。日本語、それも筋の通ったもの、いびつなところのない美文、単語のリズム、それらを毎日毎日、本を読んでいると自然とそこに書いてある内容だけではなく、自分がふだん何か考え事をするときにも、それらに影響されるのは自明です。本を読むことと信仰がなくなることに関係性はありません。ただ行動の質は変わった。

 

多分、僕は、あの信仰の効果だと思われていた寝る前の心地よい感覚は、神社までの坂道を暑い日も雨の日も歩いたという”運動”によって体内リズムが整ったのだと自然に考えるようになったのでしょう。

 

今は神社にはいかなくなったけれど犬の散歩をしています。