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がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

正負の法則にのっとられた人は、ふつうの人が幸運だと思うことを幸運だと思わない。

正負の法則

これはですね、実は少しは思うんですね。いや、正確にいうと一時間くらいは思うんです。

 

「ああ、ついてるな。」

 

そう正直に思うんです。でもこのついてるな、もただ手放しでそう思うのではなく、その因果を考えてしまうんです。

 

「昨日仕事でけっこうしんどいおもいしたな。いやこれは世間一般的にみてもちょっとは苦労した方のはずだ。」

 

そうまず客観的に労苦の位置づけを、いわば受験の世界の中の偏差値みたいに瞬時に計算するんです。

 

そこで「この今のついているは、あのときの苦の分の応報だ。」

 

そう捉えます。でそこまでならみんなそうしていると思うのですが、僕の場合、心のどこかでほんとうに心の中で願っている”今現時点で幸福なはずだと思い描いている事柄”の瞬間は”やってこないでほしい”と本気で思っているときがあるから、話が複雑なんです。

 

というのは、やっぱりそれだけでかい幸福、いわゆる自己実現的なものがやってきたら、再発してしまう、と考えてしまうところがあるんですが、これはネガティブすぎるわけでもなく、

 

本当にその可能性が高い病気なんだと思っています。

 

統合失調症は病識を持たない人が多いことで有名な病気です。これはいいかえれば、

どこか不調だとまわりのみんなが思っているのに自分は健全だと思っている非常にやばい状態なんです。

 

で、そのやばい状態っていうのは、この妄想的発想をしてしまう人間が有頂天になったときに、やばさが増幅するんです。

 

ジャンヌダルクっていましたよね。彼女は統合失調症だったと言われていますが、僕もそう思います。

 

神様のお告げがあった、という発言をする人間は、誇大妄想の持ち主の一種だと考えて間違いありません。

 

実際にきこえた場合、それは幻聴というよりも、幻聴というのは苦しい言葉、たとえば悪口だったりが主なので、神様がそう言った的なのは全部、自分の妄想のものでしかない。

 

そこで実際に行動に出て革命だったという位置づけにするのは歴史ですが、そういう歴史に残る人間は、ほんのわずかな人たちです。つまり確率が低いんです。ふつうの百人の一人の統合失調症患者は、神様からのお告げがあった次の瞬間にもしなんかしらの自分にとって幸福な出来事があって、うっかり行動に出てしまうという事態を避けた方が確率的には結果的に自分を守れるし、他人も守れる。「お告げがあった。俺は飛べるんだ、やったー俺は飛べるぞーえい。」って言ってベランダから飛び降りない、という保証はないのです。

 

だから幸福なんてこない方がいいんです。そうするとああ、今日も平凡に終わったという感想で一日が終わります。

 

でもここがさらに難しいところなのですが、あまりに平凡で良しとする一日のうちのどこかで、でもと考えだしたら、それは一つのストレスなので、それはそれで精神に悪い。

 

とまあ、書きましたが、要は幸福のあとの不幸の瞬間が怖いんですね。

 

それをみこして、ある程度の不幸と幸福の間を人工的に保つスキルが僕には備わっています。

 

あんまり関係ないかもしれないですが、あの三島由紀夫の『金閣寺』を読んだ評論家の中で、「自分の正気を保つために、美を人工的に文学で創りあげるしかなかった。」

 

と言った人がいたそうです。三島由紀夫は精神病ではありませんでしたが、正気をみつめるために文章を書く、というのは幸福な行為でも不幸な行為でもない。