がんばれないひと。

統合失調症歴9年。34歳男の雑記です。統合失調症の能力を示すのが目的です。

セクシーな人間であるためには不条理は必要ないけど、運の要素はあった方がいい。

震災で家とか家族の命がなくなってしまった人は悲しいでしょう。それは唯一といっていいくらいのこの世の中の悲しい出来事です。

 

自然災害はどうしようもありません。石原慎太郎は、3.11のときに津波を「天罰」と言ってしまいましたが、一人の人間の業による始末としての天罰ならまだしも、何万人分もの人の人生の業をてんびんにかけての天罰というのは、話が変です。

 

でもそれ以外のものってありますよね。事故とかそういうのです。これは実は防ぐことが可能だったものとして僕は考えます。

なので病気というのも含め、確実に天災以外は正負の法則が働いていると考えても変な話ではありません。

 

そうなると往々にして、なにか信仰の対象をと考えるのが、人間らしいところではありますが、たとえば不条理な目にあったとしましょう。僕はこれは100年前だったら正負の法則によるとひとつのチャンスだったんだと思っています。

 

太陽のせい、で有名の『異邦人』、カミュの小説ですね、僕はカミュは不条理を体感しまくったと思うんです。別の本に、岩か何かを背負って坂道をのぼっていくところの描写がされています。

 

カミュのそれらの著作からわかるのは、そもそも不条理がなかったら不条理文学は書けないという当たり前ですが現前とした事実ではないでしょうか。

 

でも今もって悲しいのは、そういった不条理を描いた作品というのは文学でも映画でも絵画でも、もう作品として出まくってしまっていることです。

 

音楽はどうだかわからないのですが、僕が知らないだけできっとあるのでしょう。

 

そうなってくるともう現代人には不条理を体感することに意味がない。

 

だからこそ科学は不条理をなくすべく努めるべきだったが、時代が追いついていない。

すると生まれたこと自体が不条理だ!という根本にまきもどってしまい論は進みません。

 

でも不条理を体感することに意味がなくても運を味方につけるとか俺はついているとか精一杯がんばったけどアンラッキーだった、とかいう感情はわりと人によってはセクシーだと思うんです。

 

サッカーが好きで、サッカー観戦をよくするのですが、サッカーという競技は70%が戦略、技術で、残りの30%は運なんですね。

 

で、たまに信じられないくらい美しいゴールを決めた選手とか、あるいはピッチにまず入ったときにクリスチャンの選手とかは胸に十字を書いて天を仰ぐじゃないですか。

 

それで大の男が、プレーの一喜一憂と結果で涙したりするんですよ。

 

涙すると記憶によく残って、そういうのをちゃんとのちのちまで記憶している大人は、男でも女でも人間としての色気があるように思えるんですが。

 

映画『マイバックページ』にも「私はちゃんと泣ける男が好き」という名セリフが出てきます。