がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

愛をお金みたいに会計する人間だけが愛情について語ることができる特権がある。

肉体関係ってお金で買えるんですが、そこを愛情を挟んで結婚という形に持って行って

 

そうまでしてなおかつパートナーに満足できないで他の人を想うというのは

 

これは単純に大多数の人間が通る道を模倣し、自分で自分の特性を知らなかったが故のつけがまわってきている話だと思うんです。

 

その特性とは、「結構、自分って欲張りなんだ」という、他人に認めてもらうためには甘えとも捉えられそうな身も蓋もない自覚です。

 

で、こういうことがよくゴシップ系の週刊誌にのっているので真似して書くんですが、

 

一人の同じように大多数の価値感に従っているパートナー(この場合は女性が相手だとします)の一生を満足させるには、その相手の価値感を根本的に変えるというとんでもなく労力をかけることをしない限り、スタンダードにお金がかかってくることは言うまでもないでしょう。

 

子供を二人、大学まで入れるのにいくらかかる?的な見出しの記事にもある発想です。で、そこでそういう記事が売れるならとそういう発想を実はそんなにつきつめていないけれどしているはずの未婚の男性諸君は大多数いると想定して、当たり前のように書きますが、もしそれだけのお金がパートナーや子供、つまり自分の家族にわたらずなにかもっと他の社会的なものに渡せるとしたら、それは愛情について語るというスタンスだと思うんです。それは一度も愛情について結婚とかそういう形としては経験したことがないけれど、よく知っているという自覚をふまえて、なせるものでもあります。

 

しかしそうは思わない人が多いでしょう。やっぱり一度結婚してパートナーについてよく知らないと愛情について語る資格がないとふつうは思うわけです。そう思う人が多いのは当たり前で、だからこそみんな結婚している。

 

でもなにかの事情で結婚できない場合やある程度そういったトータルコスト的なところを踏まえて、日々のうち何度も結婚適齢期を逃すことの苦みを味わったまま生きていって何か得るものがあるとすると、それは残存する肉欲と、満たされない思いが他のなにかにうつりかわることによる肉体関係なしの別のなにかが対象の愛情です。

 

僕は肉体関係ってない方がそういう愛情については客観的かつ冷静に記述することができると思っています。性欲というのははっきりと自分の好みが出てくるんですね。

 

セックスできる相手の対象が5歳児から100歳のおばあちゃんという人間はおそらく現実には存在しない。ちゃんと好みがみんなあるんです。でもそういう個人的な好みというのは、どういうわけか真実とは相いれないものなんです。