がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

パラドックスの克服。

どこかで書いたかもしれないのですが村上龍の名言に「わたしはぎりぎりまでつまり限界まで自分の力であれ何かを酷使したことがない」というものがあります。

 

僕は考えます。それでもぎりぎりまで何かを努力したという対象がなければ、成功がただの運になってしまう。創造力なんてものは僕にはない、と。

 

そこからこういう結論に至ります。

 

「僕は神様を信じているときと信じていないときがある。ギリギリまで自然に頑張ることができなくても、それと同じだけの苦痛をあえて感じる場所の確保はできる。そうして苦痛を味わえる。その後に必ず、反作用によってなにか心地いい時間が流れる機会はやってくる。それはセックスでも映画鑑賞でも食事でも、奇跡的に美しい夕焼けをみるとか信じられないほど安くなっているバーゲンに出くわすとかあんまり理解できないと思っていたクラシック音楽を理解し少し趣味の幅が広がったとか、もはや何でもいい、とにかく苦痛でない生きている喜びが感じられる場所に必ずたどり着くはずだ。ギリギリまで自然に頑張れないのは、ギリギリまで自然に頑張ってしまって統合失調症が”再発”したら困るからである。だけど健常者の人と同じように自分が努力する対象で苦労をする体験だってしてみたい。だからそれを”人工的”につくりだすのだ。」

 

そして一呼吸おいてこう考えるのです。

 

「でも人工的につくりだすという意味では神様を信じていないことになる。むしろ謀反である。だが苦痛と快楽の反作用によって、はじめに苦痛を感じればあとに快楽が来るというのは実は科学的にはなんら因果関係がない。それでもそれを信じているということは神様を信じていることになる。よって僕は神様を信じていると同時に信じていないことになる。」

 

そういうことを古代の人もきっと考えたことがあるでしょう。砂漠か氷原でふと考えて寝たら忘れると思いながらもやっぱり眠って次の日に猛烈な自然災害がやってきて忘れるどころか命を落としてしまったという人間は、とおい過去にごまんといたはずですね。

 

そこに思いを馳せるのが、神様でもない確固とした一個の人間であるというのを実感するのがあるべき人間のささやかな楽しみで、そこではじめて本当にパラドックスなんて忘れることができます。