がんばれないひと。

統合失調症を発症して9年目。1983年生まれ。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。 

ある認知症患者が教えてくれた心象風景。

 

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 なんか真夜中に目覚めてしまったのと、もやもや考え事がおさまらなくて、仕事の休みをいただいたのですが、僕は介護スタッフは、他のデスクワークがどうかはしらないですが、万全か万全に近い状態でないとケアしてはいけないという持論があります。

上記の過去記事にも書いたとおり、今の時代、そんなに無理してまで人の命を預かる仕事なのに、金のためだかわかりませんが、やる必要はどこにもない。正直、ヘルパーの仕事なんて五体満足であれば誰でもできるわけですから、

 

それこそ国の軍隊の徴兵制みたいに、対価をあたえて元気な国民みんなで仕事をまわせばいい。あるいは税金みたいな義務と同じように考えなくては、先行き、介護はまわらないでしょう。

 

おそらく本音として今、少子高齢化で社会問題となっている介護を、たとえ対価がもらえてもやりたくないという人は、なにか特別な事情がある人でない限り、人生の末期を迎える高齢者の存在なんてどうでもよいと考えているのかもしれない。

 

僕の友人で、最近、介護事業に参入した某大手保険会社勤務のエリートは、「認知症になった人間はもう生きなくていい、俺だったらそんなふうになってまで生きたくない、認知症の人をケアするためにかかっているコストを考えると仕方ない」

 

というような発言をしていたのですが、僕はそうは思いません。単純に命が尊いから、とかそういうありふれた理由ではなく、認知症になったお年寄りも”誰かの役に立っている”と信じることに意味があるからです。

 

実際に目にみえないところで役に立っているのかもしれません。たとえば、僕にはこんなエピソードがあります。

 

介護職員初任者研修の資格の学校に通っていたときに聞いた話です。講師の方が、認知症であっても残存能力はある、とそうおっしゃっていました。残存能力とは頭ではなく身体で覚えた認知症になってからも残る能力のことです。元電車の車掌だった認知症のお年寄りが、いつもやる気がなくまるで廃人のような日々を施設で送っていたそうです。でもあるとき、突然、服を自分で着替え始めた。ちゃんとシャツの第一ボタンまで止めて、その人なりに”正装”をしたそうなんです。

 

それでそこから、いきなり腕を左右に振って、まるで現役の車掌さんがするように安全点検のしぐさをして、発射オーライまでのポーズをとったのだそうです。

 

この話を聞いたとき、僕はすごく絵になる風景だな、と心の底から思いました。

 

ただ単に、シャツに着替えられるようになって家族や職員が喜ぶというもの以上に、健常者の人たちになにか心に残るものをみせつけられる話だと思います。

 

下手したらそのへんの一流と呼ばれている文学や絵画や音楽、それ以上に価値のある風景で、認知症であってもふつうかそれ以上に人の心を動かせるのです。

 

映画、フェリーニの『道』に出てくるせりふ、「この石ころでもなにかの役に立っているんだ」というのはどちらかというと消極的なものですが、まさにそれを僕はむしろ積極的な捉え方で体感できて、嬉しかった。