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がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

「聖人」は存在しないが、あの植松被告が殺害した障がい者たちはその存在に近かったのではないか。

聖なる人というのは、おそらくキリストくらいしかいなかったわけでしょう。

人間にはありとあらゆる欲望があります。いつでもどんな苦しい状況でもニコニコ善意をやってのける人間はこの世にいません。もし自分がそうだ、という人がいたり、まことしやかにそう噂される人がいても、他人に示さないところで後ろめたい感情を持ったりしているのが、嘘偽りのない人間です。

 

あるとしたら、うまくその善意ではない”欠点”を周囲に受け入れられた人でしょう。大半のうまく人生を過ごしている人間は、その欠点の表現の仕方が上手なわけです。一番、顕著な例は、一度、なにかで成功してみせて、あとづけで欠点を周囲の人が補ったり、甘受したり、あるいは解説したりします。

 

でも本当は聖なる存在でありたいという清らかな願望は叶えたいものなのです。まあ逆説的ですが、そうなれないからこそ願望というものに仕上がるわけなんですけど。

 

死者をよみがえらせたり、徳のためにはりつけになったキリストも大罪を起こすファクターはあったはずです。つまりそういう欲求が芽生えなかったことはないんじゃないかと思うんです。

 

そういうことを考えていると、あの障がい者施設で殺害された障がい者たちには、なにか邪心みたいなものがあったのだろうか、と僕は思うんです。

 

僕は「立派な障がい者でありたい」というのも邪心の一つだと思っています。一見、そういった欲望は首肯されがちですが、そこには無償の愛的なものはありません。どこかで利害がからむ世界に入ることになる。相対的に社会的な自分の立場をみて競争するのもうがった見方をすると、社会問題の芽のひとつであります。

 

あの障がい者たちは、聖人とはいわないけれどそれに近しいものがあったのではなかったか。我々、恵まれているとされる五体満足の人間は、そういうことにおしなべて全員、気が付かなければならない。