がんばれないひと。

統合失調症を発症して9年目。1983年生まれ。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。 

小利口な人間と小利口にもなれるけどその”小利口にもなれる”を否定する人間。

ずばっと言うとここで真っ二つにわかれます。

 

つまり「頭がいい」という形容の捉え方です。

 

安定を目指す人間は、才覚を駆使して安定した生活を送るでしょう。

 

でも今の時代、安定した生活、というのは実は本質的な意味で、ない。

 

これといった国をあげての共同の価値感みたいなものがないからです。

 

僕なんかはああ、答えがわかっていたら楽なのになあってしょっちゅう思います。

高度成長ってあったじゃないですか、日本に。あれってあの中にいた人たちは、現代人よりある意味においては楽をしていたんですね。大方の人は。だって自分で問いを立てる必要がないから。

答えがわかったら楽だなあと思い暮らしながら、最後までわからず、不安定でパンクとかロックな人生みたいに死ねたらかっこいいのかもしれないですが、それはそう考えている時点で打算であるし、

だから僕はこのタイトルにあげた二項対立にも中庸の考えをとる。

 

はたしてそんなことできるのでしょうか、という問いにこそ価値を見出しているんです。

 

僕の学生時代の予備校の先生が言っていました。

 

「東大生が馬鹿になったのなら、予備校生と学力の試験の競争をさせればいい」

 

ついでにその先生は「それで東大生が劣ったら、予備校生と入れ替えればいい、そうすれば永遠に日本の学生の知力はあがる」

 

僕はふーん、くらいにしか思っていませんでした。というのもそのころから予備校の先生って面白いことを言うなあとは思っていましたが、結局、それもしかれた受験レールでの話。

 

予備校の教師も長くやっているとそういう価値感にはまってしまいます。

 

でもその発言でわかったこともあります。それは学力というのは可変的である、というものです。中卒に学がなくても40くらいになればあれこれ興味ある分野で、アカデミズムの範疇の知識はあってもおかしくない。

 

それよりも重要なのは、なにをそれまでの人生で切り取ったかです。心情、交流、生活それらをどういう姿勢で心の中で描いたかによってそれこそ十人十色な物語ができあがります。

 

自分の豊かな生活に全力をあげるよりも、他者に思いを馳せる方が、小利口な人間よりも、充実するかもしれません。

 

小利口な生活を送ってきたけど、わけあってなにかにチャレンジして、成功した

ら真に利口な人間になる、というのがゴールですが、

ゴールがみえた瞬間、振り向いてさっとスタート地点に戻りたくなるような人間がいたら、それは見上げたものだと思います。

成功できない弁解とも捉えられそうですが、答えが出てしまったらやっぱり、つまらないなと思う元気な自分でいつまでもありたいと願うわけなんです。これがいわゆる個性重視の、成功は100%運だと思っている人の頭の思考回路です。