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がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

セックスの本質的な退屈さに気づいていた三島。

読書

僕は三島由紀夫が最後だったと思うんですよね。いわゆる自殺していい作家というのは。三島は本当に死にたかったんだと思います。死にざまは世に受け入れられなくても作品は世に受け入れられた。ノーベル賞とれそうなくらいに受け入れられた。見沢知廉という三島ファンの作家が自殺してますが、ああいうのは犬死にすぎない。三島を解釈するときに「もうみんなおれみたいに死ななくていいんだよ」というふうに考えるのは、こちらに都合のいい解釈ばかりではないように思います。

 

あの死を悲劇か喜劇かわからないと評したのは立花隆ですが、それもそのはずです。本望だったのかどうかなんて本人しか本当のところはわからないですからね。

 

でも僕はあれは上述したようにこれから活躍する作家、戦争を迎えることのないであろうこれからの時代の人間に、バトンタッチしてくれたというふうに捉えているところがあります。(安倍政権はちょっと戦争にならないと100%断言できないような政策ですが)。

 

三島は戦時中、”幸せだった”と説きます。自分がいつ死ぬかわからないという状況で人間は妙に幸福になる、という言葉は有名ですがこの言葉に代表されるように物事の捉え方がすべて逆説なんですね。

 

『潮騒』という恋愛小説でもっとも美しい恋愛を描きました。小説にしか表現できないものを描いた。そこにも逆説があります。ああいうのを描いておいて、本人はおそらく恋愛なんてそんなに価値高いものだと位置づけていなかったと思うんです。

 

朝日新聞に「三島にもいい時期があった」というような見出しで、結婚相手をほめちぎる書簡が見つかったというニュースがあったように思いますが、それもそのはずなんです。三島を理解する人にとっては三島が実世界では不幸だったのではないかとなんとなく推測できるからです。

 

三島は恋愛の成就しないところに美を置いた。このあたりは橋本治の三島論に詳しく描かれていますが、要はかんたんに欲望が手に入るというのを危惧したんですね。

 

青年は苦労に耐えられるだけのものがあるのにどうして苦労しないのだ、というまた有名な言葉がありますが、一生成就しない恋愛に美をおくというのはふつうから外れます。

 

なので作品に投影した。そして”作品だけは”その価値が高まった。そういうなかで三島はセックスよりもごはんよりも長生きよりも、もっと大事なものがあると思った。

それらも大事で、それらも尊いから、もっと大事なものがあるという方は、完全にニッチな思考だとわかっていながらそれに邁進して美を得た。

 

そこに立花隆は悲劇性と喜劇性の両方をみたんじゃないかと思います。

 

目的は達成できたけれども、最後に欲した幸福はあの戦時中に抱いた幸福であり、それは死であった。

口がぽかーんと開いてしまいますよね。

 

三島以後は、”本気”なんてみんな出さなくていいんじゃないかと思います。本気は死にます。殺されなくても自殺にいたります。だから気を荒くして、精神論を現代日本において説いている人間はもれなく全員ばかなのです。