がんばれないひと。

統合失調症歴10年。34歳男の雑記です。3年後までに文筆で成功し、犬とともにアメリカ移住を目標にしています。地元のフリーペーパーの記者をやっています。

統合失調症、煙草は百害あって一利あった。

GIGAZINEの記事にあったんですが、

コロラド大学かどこかの研究で、煙草のニコチンが、統合失調症の脳内の機能低下止めに効用があると発表されました。

 

わかってることは以下です。

統合失調症患者の8割は喫煙者ないしヘビースモーカー

 

統合失調症患者は癌で死ぬ確率が高いわけではない

 

ここから言えることは、統合失調症患者に限っては、煙草は百害あって一利あったという事実です。

 

上述の研究によると、ニコチンを含んだ薬を開発しているらしくうまくいけば他の躁鬱などの病もカバーできるのだと言う。

 

村上春樹の小説で、こんなシーンがあります。

 

一日二本しか吸わない高齢の喫煙者が、話しかけられるのです。「あなたは健康のために煙草を吸っているんですね」

 

またフェリーニの『道』という映画には、ザンパノが、河原に落ちている石に、「こんな石ころでも何かの役に立っているんだ」という名シーンがあります。

 

煙草というのはそういう存在なんじゃないでしょうか。

 

例えば将棋ってありますよね。

 

あれが強い人って、持ち駒を余すことなく全部使って勝つことに、なにかしらの美意識を持っている人はいそうです。

 

食堂のおばちゃんが、よく食べる男子学生に「こんなに綺麗に食べてくれて作り甲斐があるわ」

 

という気持ち良さの類ですね。

 

でも煙草を擁護するわけではなく、

 

そういうのって真実だと思いますよ。

 

僕はこういうことに気づいてから、何かを悪いと言うのはポジション的に難しいのを自覚しています。

 

本来、否定すべきものなんて世の中にないんですよ。カントを研究している哲学者が好みそうな話ですが、誰かが死刑になったとします。しかしもし死刑がなく30年後くらいに服役して出てきて、その間、人の役に立つことをしなきゃと、黒澤明の『生きる』ばりにアンテナを張ってたところ、

 

子供が二人信号無視して歩いている。ダンプカーが二人に気づかず突っ込んできて、それを、チャンスだ!と捉えて二人を突き飛ばし、自分が身代わりになって死んだとしたらどうですかね。

 

死刑に値する犯罪をおかしながら、二人の命を救う可能性だって、生きていたらないとは言えないわけです。

 

ただ僕は自分でそう言っておきながら、やっぱり死刑という制度はあった方が良いと思います。

 

こうやってつらつら考えを述べれるのは、自分が、死刑に値する犯罪をおかした人の被害者ではないからです。

 

なかなか、上に述べた理想があっても、いざ自分が被害者になるとそういう立派な発言はできないものです。死刑廃止論者もそこはフェアに自分を直視した方がいいでしょう。

 

 

短編小説『憧れの風俗嬢』を書いた。

『憧れの風俗嬢』

都会といえば都会、場末といえば場末。田舎ではないが、洗練された土地ではない。三十の頃、私は職業訓練校に二ヵ月間だけ通っていたことがある。ウェブデザインという名のついたクラスであった。何をするかといえば、Adobe社の有名ソフトウェアであるIllustratorやPhotoshopの実習である。なぜ私は職業訓練校なぞにいたかというとこれまた理由としては私が統合失調症にかかり、それまでのシステムエンジニアの会社を退職し、つまるところお金がなかったからである。というのは今がどうなっているのかはわからないが、当時は給付金が、職業訓練校に通い続ければ、一月に十万円ほど支払われるというシステムになっていた。週に五日間、毎日五時間の講義を受ければ、給付金が支払われる。もちろん面接ではそれらのソフトウェアを使いこなすことで将来的にウェブ制作会社に就職するという展望は、給付金が支払われる以上、話さなければ入校できなかったように思う。私は面接に合格すると、入校を決め、なんとも寂れたような感じのする千葉の東の方の学校へ通っていた。

学校といってもそこはただの雑居ビルの一室でまわりにパチンコ屋がひしめき、コンビニ以外目立ったチェーン店もないような陰気な様子の土地であった。私は結果としては二ヵ月でその学校をやめることになった。半年のスケジュールであったので、短い在籍期間であっただろう。私の他に私が在籍していた前に辞めた者も一人だけいた。

私はなぜ辞めたかというと、出席の日数が足りなくて給付金が支払われないとなり、自ら辞めると申し出たのだ。しかし、今となって振り返ってみると、授業自体に何か不満があったということは特になかった。時給千円の仕事だと思えば、まあ割に合うような感じはしていた。が、私はとにかくそのクラスにいるのが苦痛だったのである。休憩時間にすることもなく、友人もできなかった。私は貸与されたパソコンでワードプレスの構築の仕方を検索し、本格的なブログで収益が出るような方法を模索していた。だが、ブログで収益が出るというのは要するにアフィリエイトといういわば小売の代理業であるが、何か商品を売るためには商用的な文章ばかりを書く必要があった。それはどうにも私の性には合わなそうだった。私はワードプレスの構築方法だけを学び、一度だけ得た十万円をあてにして、退校した日の前後になんとはなしに夜の歓楽街に足を踏み入れてしまったのだった。

女の子の源氏名はあいみという名前で、それは私が初めて恋をしたプロの女性だった。私は、結果から言うと、あいみちゃん以外のプロの女性をたくさん見ることにその後なったわけだが、記憶の中であいみちゃんだけが独立している。特別に美人というわけでもなかったが容姿は整っていた。初めてあいみちゃんと接したとき、あいみちゃんは、予定の時間より大幅に遅れて登場し、私が吸う煙草を嫌った。そして全身に舌を這わせるプレイが得意で、そのプレイの様子はいわばアーティスティックですらあった。しかし、あいみちゃんは言った。

「掃除のバイトかぁ大変そうだな。あっでもあたしも回転寿司屋でバイトしていたことあったな」

私が訓練校をやめて掃除のバイトを始めた話をなんとはなしにしていたときだった。

私はその時間にルーズで、背があまり高くなく、均整のとれた身体つきで、真っ赤な口紅が似合うあいみちゃんが、割烹着を着ているところを想像し、恋をしたのだった。

思えば学生時代にも私は風俗に行ったことはあった。だが風俗嬢に恋をしたことはなかったし、ましてや当時は統合失調症発病前後である。記憶力が良い私が断片的にしか記憶がないのは、八割方病気のせいである。だが、あいみちゃんは違った。

二回目にあいみちゃんを指名したとき、あいみちゃんは拙いものいいでありがとうと満面の笑みで言った。あいみちゃんは顔は整っているのに歯がおかしかった。いびつな生え方をしていたのだ。私は、三回目に奮発してホテルでのプレイに臨んだときに、それを発見した。

「あはは、そうなの、あたし歯が変なの」

私はあいみちゃんの歯を舐めてみると、奥まったところにあるせいかうまく舐められなかった。しかし以来私は脚フェチでも胸フェチでもなく、歯を舐めるのが一番性的嗜好を満たしてくれることを知った。あいみちゃんは一見清純に見えたが、おへそには海外のアーティストみたいなピアスがしてある。私はあいみちゃんが歯を隠し、おへそを隠して、回転寿司屋の客が食べた寿司の皿を数えるところを想像して、これはただの男の欲ではなく、恋なのだといつも自慰でプレイが終わるときに思っていた。だが、五回目で私はあいみちゃんにはもう会わなくなった。

それはあいみちゃんが、

「そんなにお金ないんだったら無理して来なくていいよ」

と言ったことも理由としてあったが、何より最後にいつも自慰で終わる私とのプレイに、あいみちゃんが罪悪感を抱いているのが5回目にして感じ取れたからであった。私はホテルからあいみちゃんと別れるときに、交わした会話を覚えている。あいみちゃんは猫が苦手で、スポーツタイプの自転車が好きだった。あいみちゃんはチラッと私が乗ってきた赤のクロスバイクをみて、

赤もかわいいよね、と言い、私は水色のやつに乗っていると、ギャンブル好き同士が互いにギャンブルの話をするときのような純粋な様子で言った。

私はそのとき自転車の話はどうでもよく、要するに恋の対象になる女は、自慰でしか射精できない、ということについて、これは一体何なのかと深く考え込んでしまうようになったのだ。

三島由紀夫は言った。

「恋の不可能性に恋をする」

三島を解説したいくつかの本によると、三島の文章は変だというのを丁寧に説明しているものがあった。変だ、という部分は、派生して考えると、私の、あいみちゃんに対する心と身体の反応のギャップそのものでもあった。私は三島の読者が一様にその解説を読まなければ理解できないのかどうかは真摯な問題であった。というのは、私にとってみたら、それは変ではなく、実際に起こったことなのである。つまり、普通の人間は、恋をした女性と結婚し、何の戸惑いもなく普通にセックスができて、子供が生まれる。そういう人たちには三島は理解できないのだろうかという疑問がまずあった。それは実にその後の生き方を左右する重大な関心ごとである。

芸術が理解できないというのは、何億私のもとに積まれようと私は嫌だった。だが芸術が理解できないのが辛いと言って自殺してしまうような人間は古今東西、私は見知ったことがない。つまり、芸術というのは不必要な要素があるのだ。生活や平和に関係ない、無駄なものだというのが私には不思議に思えた。なぜなら、三島はノーベル賞という一番名誉のある賞に近かった作家である。デビットボウイやフランシスコッポラなど影響を受けた人物は海外にも数多いるし、日本での知名度も抜群である。それが、その人とその本が生活に関係ないのである。もし、あいみちゃんに私が普通に欲情し、普通に性行為で射精できたのなら、その瞬間に三島ひいては芸術が私の頭の中で崩れさるのだろうか。そのとき、私は今、そのようなことを思っている私は私ではなくなるのであろうか。そのようなことを延々と考えていくうちに人生がはやく終わって欲しいという欲望すら私には芽生えたのである。

私は掃除のバイトを辞め、その後、職を転々とした。その間に数多の女が私のまわりを通りすぎたが、あのあいみちゃんに抱いたほどの、人生の深淵を覗いたような感覚はもうなかった。要するに私はカレーライスを食べるように射精し、ビールを飲むように女の子にニコニコ話をしていただけなのだった。私は、一年前に一度だけ、あいみちゃんに店の外で会った。たまたまあいみちゃんの出勤中に見かけたのだ。

あいみちゃんはこの街に不釣り合いな洒落た編み編みの真っ白な日傘をさして俯いて歩いていた。

私が、あいみちゃんじゃない?と話しかけると、合間を取って立ち止まり、ああー、と声を出した。そして、

「気づいてくれてありがとう、でもあたし今遅刻してるの急いでるの」

そう言い、立ち去って行った。一年が経った。いつのまにか風俗店のホームページからはあいみちゃんの名前が消されていた。あいみちゃんは、もうこの街にはいない。その事実がなぜだか今度は私を、なぜだか前向きに、勇気付けた。体を売って稼いだお金で歯は矯正しただろうか。あいみちゃんに会うことは二度とない。今、私はブログではない媒体にのせる文章でわずかなお金がもらえる仕事についている。あいみちゃんが猫を苦手とするように相変わらず商業的な文章を書くことができない。

統合失調症と成長もしくは向上。

伊藤忠かなんかの丹羽宇一郎さんが、どこかの本で「仕事でしか人間的成長ははかれない」と言っていましたが、疑問符がつきます。

 

松本人志はどこかで「俺は禁煙しているけれど、かと言って喫煙者に禁煙した方がいいなんてアドバイスしたことがない。煙草なんか吸っても吸わなくても同じ。禁煙した人が喫煙者に禁煙をアドバイスするのは、驕りでしかない」

 

と言っていましたが、僕はどちらかというと松本人志のような考えの人の方が信頼できると思います。

 

自分が何かの道で成功して、その道を賞賛するのは、驕りなんです。

 

僕が三年間だけ正社員でシステムエンジニアとして真面目に勤務していたときも、「自分の道が正しい」と思っていたことは一度もなく、いつも、スーツでいる自分とは対象的に仕事帰りに喫煙所にラフな格好でいる何をしているのかがよくわからない人たちに興味が湧いていたのを覚えています。

 

丹羽宇一郎さんは仕事を、どこまでの活動をそう定義していたのかは、その本では不明でしたが、丹羽宇一郎さんの経歴から推測して、いわゆる会社勤めをさしていたのだと思われます。

 

しかし世の中には働けない人たちがたくさんいます。

 

そういう人たち、統合失調症患者も含めてですが、に何が人間的成長を促すかというと、知ることだと思うんです。

 

会社勤めだけして本はほとんど読まないだとやはり人間的成長はありません。

 

最低限必要なものは、

 

・どんな相手でも敬意をあらわす

・わからないことは、わからないとはっきり認め、恥を捨ててわからないことを学ぶ

・教養を深める

・ふさわしい言葉を使う

 

くらいのことができていれば、別に仕事なんかなくても、人間的成長ははかれるのではないかと僕は断言します。

 

その代わりに何が、人間的成長をもたらすファクターになるかというと金欠です。

 

統合失調症患者に仕事もせずに、大量のお金があった場合、やはりそれはどこかで道を外す可能性が高いと思います。

 

森博嗣がどこかで言ってましたが、

仕事をしない、できない人を特別な目で見る必要はなく、

 

"ただお金がない"というそれだけのことなのです。それ以上でもそれ以下でもありません。

 

僕は、お金があるときは、"これは貯めないで何か自分や他人の向上のために使わなければダメだ"と思い、

 

お金がないときは、"なんとか工夫して生活しよう、道はどこかに必ずある"と考え、そのときに端的にメリットとしてあらわれるのは、身体の健康です。お金がないと痩せて美しくなります。

 

なのでどっちに転んでも良いことは必ずあるのです。

 

しかし、ならば、お金があるときも節制して痩せて美しくなっていればいいじゃないかと思うかもしれませんが、統合失調症患者には病前性格というものがあります。そしてその病前性格とは、体型との関わりがあるのです。よって一概に美しい体型を維持することが良いことばかりではないのです。このことについては、また別の機会にお話します。

 

統合失調症と正負の法則。

さて、統合失調症は孤独に耐えられる我慢強さが必要と書きました。

 

でも実はこれだけだと実に簡単なのです。

耐えていればいいだけですから。

 

僕はいつも思うんですが、"これだけやっていればいい"というものは人生において一つもありません。それがたとえどんなに良いとされていることであってもです。

 

例えば受験勉強であれば勉強だけすればいいのは正解です。それだけやれば、いつか合格という結果が出るでしょう。ただそうすると、勉強だけすれば良いという価値観は、合格と同時になくなります。勉強がどれだけ尊いものでも、アインシュタインになれないのであれば、他のこともやらないと人間としていつか綻びが出るでしょう。

 

スポーツ選手でも同じです。サッカーならサッカーだけやっていれば、人気プロサッカー選手はそのときはいいですが、いつか引退という時が来て、他のこともやらないといけなくなります。たとえ一生分稼いでいたとしても、世界を知らなければいずれ宝くじが当たって堕落して破産する人みたいな人生になるでしょう。

 

よく考えてみると、たとえそれがどんなに良いことでも、"これだけやっていれば大丈夫なんだ"というのは一種の怠惰であることがわかります。

 

人間は疲れることが嫌な人が多いため、あらゆる便利なものが開発されますが、たとえばマラソン選手にとってみたら走ることは普通の人には苦痛でも快感になるのです。つまり、これだけやっていればという対象を持つことは大切ですが、それをやっている中で少しも苦痛を感じないというのは危険信号であるように人間と人生はできています。

 

永井均をはじめとする日本の哲学者が才能を発揮して、才能だけで生きていけるような状態は倫理的にどうなのか、という疑問を呈しましたが、その答えを僕なりにまとめると、「ある分野で一番になれるような功績を残せる人のみそれは許されるがその後の人生は保障されないため、結果として多くの人は何か他の対象についてもイヤイヤながらやった方が人生に正負の法則があたらない」

 

というふうになります。

 

よく才能を伸ばすためにそれだけやっていればそれが生きる社会を提唱する人がいますが、あれは実は怖いものなのだと統合失調症という正負の法則が一度当てはまった僕は思います。

 

しかし、知る、ということには正負の法則が当てはまらないのです。

 

僕は上に述べたようなことを知った上で、統合失調症になって良かったと思うときも僕の人生にあります。誰かの苦痛は誰かの楽。

 

不幸を幸福に変えるのは、いつでも良質な世界の認識の仕方の中にある。

 

 

 

統合失調症はマイペース。

今日病院に行ってきたのですが、

担当医にあれこれ現状を話してきました。

 

もっと人間としての社会的活動を活発にしたい。

 

そうリクエストしたところ、きっぱりと

担当医は、私は今のままで良いと思います、とそう言いました。

 

僕はその意見に従うまでです。

 

統合失調症を良い方向に持っていく秘訣としてまず第一にお医者さんと仲良くやる、というのがあります。

 

回復の一歩はお互いの信頼関係です。

 

次いで慎重にやる、というのがあります。

 

もし統合失調症に完治という概念があれば、治療は早く進んだ方がいいに決まっていますが、統合失調症はあいにく小康状態を意味する寛解しかありません。

 

つまり再発してしまう病気です。

 

発症して1週間で治るということがありえない病気です。それだと2週間目に再発しますから。

 

なので治療も本人の症状に合わせてゆっくり。そうこうしていくうちに健常者の社会とは噛み合わなくなります。しかしそれはやむをえない。

 

統合失調症患者がある程度回復したら、

長期的な人生の視点を持つことは大切なように思います。

 

健常者は病気がないばかりに能力を駆使していけるところまでいったら見返りを一気に得ようとする欲があります。

 

たとえば平均初婚年齢の男の方は、それが象徴されているように思います。

 

30そこそこで結婚というのに何か合理的な理由はないと思います。女の子の場合は身体の問題がありますから子供が欲しい場合、若い時の方が結婚はいいでしょう。

 

統合失調症はそのようにペースというのを自分で持つしかないのです。

 

そしてメンターになってくれるのは親でも友人でもなく、お医者さんです。

 

お医者さんが言うことには説得力があります。

 

なにせ膨大な数の患者をみてきているわけですから。

 

というわけで僕はますます社会的レールから、今のままのペースで良いと言われたからには離れることになるでしょう。

 

僕は1日の大半の時間を陰性症状に費やしている日が最近多いです。

 

そういうときは、やはり焦ってしまって、今日僕が担当医にまず話したようなことを本心で言ってしまいます。

 

しかしそういうときこそ、お医者さんが言うことには従っておけばまず間違いありません。

 

何が弊害になるかというと、孤独です。

 

マイペースな人生は孤独と表裏一体です。

 

統合失調症の回復期には、我慢強さというのは必要な要素です。前にも書きましたが耐えるときは耐える。具体的には僕の場合は動けないなか、動けるようになるまで辛抱強く布団の中で待つのです。

 

性欲をコントロールする方法。

一番の前提としてあるのは、

セックスで射精するのと、オナニーで射精するときの脳内が感じている快楽の度合いは同じである、というのに尽きます。

 

セックスしたいなぁと感じるの脳の部分と実際に行為をしているときに感じる脳の部分は別の場所のようです。

 

ここから言えることは、セックスしたいなぁと感じる欲求を最大化させておいて、オナニーに臨むのが、もっともある種の人間にとってはコスパがいいという結論です。

 

セックスとオナニーに本質的な差はない、ということです。

 

セックスだってマンネリ化したら快楽を感じなくなる。

 

で、僕はある言葉を昔、風俗依存であったときに風俗嬢から聞きました。

 

それは、「こんなにたくさん老い若いに関係なく風俗を利用する男がいるのを知ると、"あなただけを愛している"という言葉は信じられない」

 

これはある意味で真実であり、真実でない部分もあります。

 

心と性は別である、というのが真実であるからです。

 

たとえばどんなに相思相愛のカップルがいたとしても、魅力的な異性が現れ、男女関係なく性欲を感じる状態であれば、

やはり行為はできるというか、貞節や不倫禁止などの定めがなければ、人間はそういう状態のときセックスするんです。

 

つまり性に関しては、"この人じゃないとセックスできない"という風に物理的になっているほど人間は綺麗な生き物ではないのです。

 

ただ人間として愛しているという部分は、付き合った年月にも比例するでしょうし、それは心の状態としてはあります。

 

ただ僕は相性という面においても懐疑的なところがあります。

 

アドラーという心理学者は、自分に構えさえできていれば人間はどんな相手でも愛し結婚ができると説きます。

 

これは要するに、趣味や相手の社会的ステータスや価値観などは、いくらでも自分自身が環境によってあるいは努力によって変えることができるというのを意味します。

 

そういうことを考えていると、一見、よく流行りの歌などである、出会えたのは奇跡、というフレーズがありますが、あれが嘘に思えてきますね。ただ僕はペシミストではないので、裏の裏をかいて、あの言説は正しいのだと思います。

 

というのはたいがいアドラーを知ると、奇跡的な恋愛というのがありえない、人間はその気になれば誰でも愛せるんだ、と、なるでしょう。そういう感情があるのを男も女も知識として知った上で、カップルになるのであれば、一人がそういう気になる確率ですら低いのに二人がそうなるという意味でやはり奇跡だと言えるのだと思います。

 

ヒューマニズムと批判。

ヒューマニズムの思想の持ち主が何かについて批判をするのは、矛盾です。

 

ヒューマニズムというのは、フェリーニの映画『道』にある、「この小さな石ころでも何かの役に立っているんだ」という言葉に象徴される精神です。

 

もしその立場に究極的に立つと、どんな人間でもOKとなるのではないでしょうか。

 

ヒューマニズムというのは、つまり、変化のことです。

 

犯罪をおかした人が立派に更生するなどがわかりやすい例でしょう。

更生させるために犯罪を批判するなら分かるのですが、更生しなくても愛情を示すのが真の意味でのヒューマニズムではないか。

 

でもそうなってくると、弊害があって、

自分が堕落するんですね、その精神だと。

 

だってどんな人間にも愛情を示していたら自分も悪人でもいいやとたいていなるじゃないですか。

 

だから批判はただ単に自分に自信がないことを前提にした行為なんですね。

 

だってどんな人間も許してなおかつ自分はそうならない自信と結果があれば、

批判するのはヒューマニズムの真の意味において違うわけですから、しない方が矛盾がない。

 

そういうことが背景にある上で、やっぱり自分はそんな立派になれないという奴が、人を批判するんです。

 

つまりは自分にその批判を言い聞かせているんですね。

 

それは自分のためなんです。

 

そういうのですら嫌だという真のヒューマニズムの体現者が立派になれる持つべきものはプライドです。プライドというのは、品格の部類です。

 

言い換えれば、すぐに批判しときながらヒューマニズムを語る人間は、プライドの低さが浮き出てしまう構図になっています。

 

ヒューマニズムと誰かを批判することは基本的に矛盾することなのだ、と常に頭に入れている人が、あるべき姿だということを、

 

実は、ヒューマニズムを扱った芸術作品は端的には教えてくれません。

 

それは、自分の内面から気づくのがベストだから、というのもあるでしょう。

 

批判は、別に悪いことではなく、活気が出るものなので、たくさんあっていいものだと思いますが、

 

この世の中のどこかに、ヒューマニズムと批判は本来相入れないものなんだ、矛盾なんだ、だけど自分はどんな悪人もニコニコして受け入れて、何の見返りもないけど、プライドで持って、自分はこの悪人を許容するけど自分はそうならないんだ、という人間を想像することが、批判の前に来なければ、と思うところはあります。