がんばれないひと。

統合失調症歴10年。35歳男の雑記です。地元のフリーペーパーの記者をやっています。

外見だけはどんなに人を馬鹿にしてもいい。

メンタルを強くする際に、人を見下して生きていると自然と自信が生まれ強いメンタルを持てると言われます。

 

ただこの方法には問題があります。

傲慢になりはしないか、というものです。

 

それをも全てコントロールしてやれる自信のある人はいいですが、なかなかそうはいきません。

 

頭の良さをはかる尺度が人によって異なるため、コイツは馬鹿だアイツも馬鹿だとなっていくと最終的に自分が一番馬鹿だとなるのがオチです。

 

人間の世界は多様性ですからね。

 

自分が一番頭がいいという認識は、誇大妄想にもなります。

 

統合失調症でもまま見られる症状です。

 

そこでたったひとつだけ、この方法ならたとえそれが誇大妄想でも、自分に自信が生まれ、社会に役に立つ、人を馬鹿にする要素があります。

 

それは容姿です。

 

でも待ってください。そう定義すると、やれイジメ問題だのなんだの出す人がいますね。

 

でもそのイジメ問題に過敏になる人ほど、俗物だということに気づいていますでしょうか。

 

というのはイジメというのは子供の世界です、基本的に。

 

子供の世界は、残酷なことが起きるのが常です。子供なので。イジメに関しては専門家でなければ、包括的な答えは出ないでしょう。

 

しかし子供の世界を卒業して大人の世界でアイツ不細工だとかチビだとかデブだとか人に言ったり言われて傷つく人っていますでしょうか。

 

それはもしいた場合、言った方も含め双方が淘汰されます。そんな瑣末なことに囚われていたら家賃も電気代も払えません。

 

外見より大事なことは山ほどあります。

 

ただ外見で相手を見下すのは、ひとつのそれはそれでユーモアを含んだアティチュードなのです。表現手段なのです。

 

僕はいまだにかつての人気ロックバンド、ブランキージェットシティーのMVをユーチューブとかで見ます。いい大人が、「俺たちが一番かっこいいだろ?」といわんばかりの演奏とルックスです。

 

でも大人があのスタイルをみて、本気でコイツらかっこいいなぁと憧れたりすることはまずありません。ああ、こういうビジュアルと曲調の戦略で、人気が出たんだね、という売れた理由などを分析することはあっても、俺たちが一番かっこいいを真に受けません。そこにあるのは純粋に文化的なユーモアの要素です。

 

それと同じような構図で自分の容姿が一番かっこいいと、それこそ誇大妄想するのは、自分も気分がいいし、まわりもそういうアティチュードを面白いと思うわけですから、別に口に出す必要はないですが、全員が全員そう思えばいいのです。

 

大人の世界に外見の正解はありません。

正解があると思っている人はもれなく全員ジャニーズが一番かっこいいと思うような俗物なだけです。

 

容姿というのは神様がくれた平等です。それには気がついた方がいい。

 

統合失調症と結婚。

統合失調症患者の結婚は、相手に理解がある場合のみ合理的。というのが結論です。

 

その理解には、もしかしたら生まれてくる子どもが同じ病気にかかる可能性がある、というのも含まれています。

 

僕の場合は、こんな風に考えています。

つまり、統合失調症患者っていうのは生きづらいんです。病気である理由はマイノリティだから。当たり前ですね。

 

だけど、自分の努力だったりでその生きづらさを抱えてもなおかつ生きる喜びがあるというのを、自分が証明できたときにうまく結婚できるかなと思います。

 

僕は結構その生きる喜びに高い目標を設定しています。ふつうに些細なことでも幸せに感じる瞬間は今でもありますが、

僕は文章で社会的な成功をおさめたい。

つまり、自己実現したいわけです。結婚するならば。子どもを得ようと思うならば。

 

このブログの最初の方に書いた正負の法則は今でも僕に影響を与えています。

たとえば、相手が病気に理解もあってお金もあって話が合って好みのタイプという場合、それは強運じゃないかと思うんです。正負の法則の趣旨は、努力の前倒しですが、

 

成功するまで、自分が納得できるまでは努力の前倒しをしようと思っています。結婚で得る強運よりもそっちを優先します。

 

というのは、子どもができて子どもが育ったあとに例え同じように発症しても、

 

パパも同じような状態だったんだ、だけどちゃんと夢も叶ったんだよとかなんとか説得力を持って言えるわけじゃないですか。

ただ一方でそういうことを考えながら、他方で成功しなくても犬とともに終わる人生も美しいかなと考えています。

 

人間って死ぬ前に、ああもっといっぱい遊んでおけば良かった!

 

とか

 

もっといっぱいセックスしとけば良かった!

 

という後悔の仕方はないみたいですよ。

 

僕はこれは信憑性があると思っています。

 

もしそれが真実であれば、みんなあんなに遊んだりセックスしたりすること以外の対象に精を出すはずないからです。

 

というわけでその二パターンはどっちに転んでも、僕には受け止める覚悟があるわけです。

 

だけど問題は、成功するパターンでいざ結婚しようと思ったときに、結婚したくてもできないことになりはしないか、という点だと思います。

 

でもそのときはそのときです。統合失調症患者に大事なのはまずは症状のコントロール。それがうまくいけば、健常者であっても結婚しないことが自分の幸せ、と考えている人がいることも参考になります。実際に自立心があって、自分で人生に楽しみが見出せるなどの条件が整う場合、結婚しなくて幸せと答えている人が多いという統計があるみたいですよ。

 

 

SNSは承認欲求のコンビニ化。

僕はSNSに救われたな、とつくづく思います。僕がもし発症した当時にSNSが今の時代のように発展していたら、発症を免れたかもしれない、とさえ思うことがあります。

 

まあ病気は性格や遺伝もあるそうなので一概に環境だけが良くなっても発症はしていた可能性は大きいですけど。

 

で、本題です。

 

僕はSNSというのは、マズローが主張した欲求の段階の頂点にある自己実現をものすごく身近にしたもの、と捉えています。

 

コンビニ化、とあえて呼びます。

 

楽なんですよ。

 

昔だったら高度な自己実現の存在は、人を死に追いやることもあったと思うんです。

 

希望の大学に入れなくて自殺とかそういうのってあったと思うんです。

 

だけど今は、つぶやいたり写真あげたりしていれば、自己実現を軽くしたようなものだけど、その感覚が得られる。

 

ある意味もう、例えばベーシックインカムなんかでクリエイターを増やさなくても、既に一億総クリエイターというか表現時代はあるんじゃないかと思います。

 

ただ金銭的報酬という意味ではまだまだ弱肉強食の時代ですが、意外と承認欲求の充実というのはそこまで軽視できるものではなく、

 

無用なストレスを溜めないような効用があると思います。

 

僕はそういう目に見えないけど確かにそこにある利益というのを考えるのが好きです。

 

述べたような、承認欲求が満たされて得た効用、なんて目に見えないですよ。

 

それに価値付けするのは自分です。

 

つまり、自分の中で、お金を得て何かを買ったときの効用が、SNSで承認欲求が満たされて得た効用と等価となれば、

 

お金は必要最低限で良いのです。

 

こういう話をすると、大概保守的なそれこそバブルを経験したような年配層には理解ができないんです。

 

よく若い世代、つまり今の世代は大変だと言う人がいますけど、僕からしてみれば物や金が価値観や人生に大きな比重があったあなたたちの方が価値経済のメリットを理解できなくて可愛そうと思ったりします。

 

思うに、これは自分と同じ世代の人がどう思うか、というだけだとは思うのですが、(つまり多くの同世代が考える幸せが自分の幸せにもなるみたいな)

 

僕ら統合失調症患者にとっては価値経済の時代は歓迎すべきことと思います。

 

だって、昔で言う企業戦士にはなれないわけですから。

 

SNSってこの先どうなるんだろう?と漠然と2年前くらいに大学の友人と話していたことが記憶にありますが、今出せる答えとしてはそんなようなところです。

身近な生活の中にある臨機応変。

サッカーが好きなのでサッカーの話から入ると、

 

サッカーって技術があってなおかつ臨機応変さがあるプレーヤーが活躍するスポーツです。

 

象徴的なのはPKでしょう。

 

遠藤保仁は、相手のキーパーが倒れたあと瞬時に逆の方向に蹴る臨機応変さで、

PKの名手と言われています。

 

理屈上はこれが誰でもできれば、PKというのは必ず点が入るんです。

 

他のシーンで好きなのは、トーキックでゴールが決まるシーンです。

 

元ブラジル代表のロナウドロマーリオはトーキックでゴールをよく決めました。

 

あの、つま先で打って入るというのは、

計算外のプレーなんです。

 

そういう得点シーンをみたとき異様に興奮するのは、まさにそこにライフスタイルにおける、ちょっとした寄り道、機転が象徴されているように思うからです。

 

つまり、ルーチンの撤廃なんですね。

 

機会損失という言葉があります。

 

文字通り、機会を逸することによる不利益ですが、

 

できればなくしたい。

そのためには毎日決まった時間に何かをするのはクリエイティブに生きようとすればするほど、なくした方が生活が上向く。

 

僕の場合、その機会損失とは情報です。

 

今の時代、コンテンツは腐るほどあり、ニュース記事も腐るほどあり、食べるもの種類も腐るほどあります。

 

これらを時間軸の中で固定するのは、思想が凝り固まるような気がするんですね。今の時代、何かの代替のものなんてたくさんありますから。

 

で、固定とか不変って楽なんですよ。

 

だって毎回決まったことをすればいいから。

 

もちろんメリットもあるでしょう。

 

二日おきに昼夜が逆転する生活よりは

 

朝早く毎日起きてラジオ体操を習慣にしている人の方が、他の要素が同じなら、より健康的だとは思うんです。

 

ただそこにクリエイティブさはあるか。

 

僕はわざと部屋の中にあるものの位置とかを頻繁に変えます。

 

あんまり意味のない労力だとしても、

手と頭を使うところで、脳が活性化するというのは本当だそうです。

 

人間はなーんにもしなくよいと言われても、何かしてしまう習性があります。

 

むしろ世の中がテンポよく変わっていって、また自分の体の細胞も新陳代謝を繰り返して日々生まれ変わっているとしたら、

 

ルーチンというのは弊害とさえ言えるかもしれません。エジソンが膨大な量の失敗をして発明家になったように、新しいものを取り入れてたまに後悔があった方がいい。

 

なぜ後悔したか、というのをまた考える喜びや生きる動力が生まれるからです。

充電できない充電ケーブル。

よく純正のケーブルでないと

 

スマホはダメと言われますが、

 

僕はあれ、信じていなかったんですね。

 

昔、パソコンを半自作したときに例えばCPUのところでメーカーの保証がないと言われるものでも、動いた記憶があってとにかくパソコンや周辺機器に関して、純正と名のつくものは排していました。

 

プリンターのインクとかもね。

だって純正ってすごい高いじゃないですか。

 

それで、サードパーティ製であっても大概大丈夫、と思って、iPhoneとディグノケータイを所有しているんですが、

 

その充電ケーブルを、ドンキの電源差込口が一つでアンドロイドもiPhoneも充電できるスッキリできるケーブルに変えたのです。

 

はじめのうちはちゃんと充電できたんですよ。

 

だから純正のケーブルを不要と思って捨てたんです。

 

ところが、2カ月くらい経ってまずiPhoneが充電できなくなり、次にディグノケータイが充電できなくなりました。

 

iPhoneの方は、純正ではないけれど、

 

アップル公認と謳ってあるものにしたら再び充電できるようになりました。

 

問題はアンドロイドのディグノケータイの方です。

 

アップルみたいに公認、みたいなのがないんですよ。

 

ディグノケータイは僕が使っているやつはワイモバイルのものなので、

 

ワイモバイルの店で買ったものは大丈夫という認識は正しいです。

 

ただお金がかかる。

 

そこで結論、

 

ディグノケータイの方は、

 

電源差込口とUSBケーブルが別れていないやつ、

 

限りなく純正のものに近い形状のものだと充電できました。

 

これは、ジェイソンで買いました。

 

ダメだったのは、

 

iPhoneや普通にドンキで売ってる電源の差込口単体のやつにアンドロイドのUSBケーブルを差して使う方法です。

 

なぜダメだったのかはよくわかりません。パソコンやパソコンの周辺機器とはスマホの世界は違うのかもしれません。

 

とにかく、学んだことは

 

スマホまわりに限っては、純正のものは

大事にした方がいい、というものです。

 

ドンキなんか行くと便利そうなケーブルがたくさん安く売っているんですよ。

 

そもそも僕はケーブルがごちゃごちゃするのが嫌いで、ケーブルを変えたのですが、今はスマホの無線充電器って売ってますね。

 

すごく便利そうですよね。

 

でも、ちゃんと充電できそうかは、よく調べた方がいいです。

 

結局どんな高尚な人間も俗物に救われる。

一般的にテロリスト、アラーの教えに沿って自滅すれば天国に行けるという過激派は、その根っこにある思想は、ちゃんと読んだことないけど、マックスウェーバーのプロ倫、あの資本主義社会が発展したのはプロテスタント流の合理にあったと説明する趣旨と、大差ないんです。

 

信仰というか信念という意味では。

 

オウム真理教だって、入信した人は似たような考えだったのではないか。

 

とすると、イスラム過激派がダメでオウムもダメでプロ倫の対象のプロテスタントが合理であったという違いが何にあるかと考えると、俗物の思想に触れるか触れないかの違いだと思うんです。

 

俗物って勘違いされやすいんですが、僕はあれはあれで一つの才能だと思っています。

 

筒井康隆は、健康志向で煙草撲滅志向の人間を俗物、すなわち、二元論を解さなく、スポーツが好きで、男女共にエロいことばかり考えている連中、と揶揄していますが、

 

そういう一面はやはり才能といえば才能なのです。

 

やろう、なりたい、と思っても、例えば筒井康隆みたいな作家にはできないことです。

 

それをなぜ才能と言えるかというと、

 

そういう俗物的発想というのは、

 

イスラム過激派やオウムにならないための防壁になると思うからです。

 

俗物は、確かに低脳だったりしますが、

 

その分、人間の持つ、三大欲求や、それに付随する極めて人間らしい低俗な感情を何の疑いもなく持っていて、彼らの快不快や、カッコいいカッコ悪いや、すごいすごくない、は実際に役に立つのです。

 

というのは、例えば、LGBTではないのであれば、俗物が認める美人や美男は、その世界に入れば確かにその通りの価値があったりするわけです。アダルトビデオがアダルトビデオとして、あるいはサイトとして成り立っているのは俗物的美意識、あるいは最大公約数的美意識がビジュアル面で用いられているからであり、

 

高尚な人向けの欲求発散は違うもの、例えば映画だったり本だったりします。

 

人間は理性が強くなると、俗物的美意識を容易に捨てられるようになりますが、

 

これを捨てるときには、もしかしたら自分がイスラム過激派やオウムになってしまわないかなどの一線に敏感になる感情が、その後それらにならない人にはどうしたって必要なのです。天才以外。

 

で、その感情は、種類としては極めて俗っぽいものなんですね。だけど大事。

 

そこに無頓着な文化人には、天才以外やはり大局が見えていないのでしょう。

新幹線の喫煙ルームにある未来。

僕はかれこれ10年以上煙草を吸っていて最近は最寄りのセブンイレブンに売っているゴールデンバットを1日二箱いくかいかないかくらいの量で推移している。

 

本題だが、僕は居酒屋とかレストランとかその他今まで灰皿が置かれていた店は、ちょうど新幹線の喫煙ルームにあるような狭くても清潔に吸える場所が店内かもしくはすぐ外にあるならば、即刻全店全面禁煙にしてもいいと思っている。

 

煙草というのは、これは安部公房か誰かが言っていたのだが、ほんとうにおいしいと思う一服というのは稀で、たいがい惰性で吸っているなかたまたま一日のうち数本ほどおいしいタイミングがあれば嬉しいというくらいというのは普遍的であると思う。僕は新幹線のあのボタンを押して中に入り、風景を見ながら極めてクリーンに吸えるあの喫煙ルームが好きである。

 

思うにあれがあれば、喫煙席というのはヘビースモーカーな僕でも不要と思えてくる。

 

僕が30の半ばになって、酒は1週間まったく飲まなくて大丈夫であっても煙草は吸う人生の中で受動喫煙には気を使うようになった。

 

部屋では換気扇をまわして犬が受動喫煙しないようにすら気をつけている。

 

愛煙家にも二種類の人間がいて、ただ惰性のままとにかくだらしなく量を吸うタイプと、何かこだわりを持ってもしくはメリハリを持って量を吸うタイプである。

 

僕は前者は、おそらく禁煙外来やちょっとした覚悟があれば煙草の量を減らせるか禁煙できるように思う。

 

吸っている間に何かこだわりの対象がないのであれば、違う何かで代替可能なのだ。だが後者は、吸うことにアイデンティティの一部が同化している人が多く、なかなかやめられない人が多い。

 

僕は後者である。

 

しかしアイコスに代表される洗練されたデザインと機能の物が普及したように、喫煙者というのはカッコいい、クールなものを好む傾向がある、と僕は思う。

 

そこであの近未来っぽい新幹線の喫煙ルームである。

 

あれがあれば、別に吸いたければ、ちょっと席を離れてあそこで吸えばいいだけなのだ。そこにこのご時世、文句もないし不便さは感じない。

 

受動喫煙させることが害である認識はもっと、科学的事実なので広めても良いと思う。

 

僕としても、そんなに煙草を悪というイメージではなく、頭脳労働や心の安定や映画にあるような情緒的風景として捉える人が増えるのであれば、そっちの方が歓迎なのだ。

 

気の毒なのは、東京都の喫煙者の職員である。喫煙所をなくされたみたいだが、そんなこと言った僕もデスクワークをフルタイムでやりつつ、禁煙はさすがにキツイ。あれは本当にかわいそうだと思う。