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がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

便利なものは使い倒してから手放す。

パソコンを売りました。

 

今は漫画喫茶だったり親のパソコンだったり、つまり借り物でこのブログを書いています。

 

これからも僕の借り物人生は続くと思います。

 

所有したいものってなんでしょう。

 

この世の中で所有しなきゃいけないものってほんとは何一つないのかもしれませんね。

 

でもそういう発想とは別に僕は便利なものはいったん使い倒してから手放すといういわば新陳代謝のようなことをたまにやるのが好きです。

 

ずっと一個のものばかり愛用するという発想はそれはそれで見えてくるものがありますが、消耗品ではなく便利なもの、パソコンなんかはどちらかというと贅沢品で便利なものですね、それをいったんなくすと、アナログとしてのものの見方が加わったりします。結局、デジタルもアナログもどっちもあるのが現世なので、どっちの良さも知っておくのがベターなわけなんですね、生きやすくするには。

 

そして”借り物人生”は身軽になります。

 

話が飛びますが、親鸞が、もし苦労なきまた真実のみに着眼した人生を送りたいのなら誰も愛するな、と説いているのは有名ですが、

 

これは本当のような気がしています。

 

たとえばパートナー。所有するという感覚でいるからそれそうおうの幸せがありましょうが、そのかわりなくしたときにこれまたそれそうおうの代償、悲しさですね、を払うことになります。

 

そのサイクルがいやであれば、親鸞はそもそも誰も愛するな、と説くわけです。

 

そうすると幸せが自然と、対象が広いものになるんですね。

 

万人を愛するみたいな発想です。

 

これはこれでひとつの考え方でしょう。

 

僕はそうやって生きるのは統合失調症にとっては長い目で見た場合賢いように思うのですが、まあでも親鸞の域に達するまでのそれだけの間であらゆるストレスから身を守れなさそうなために発症したという見方もできそうですから、

 

こればっかりはなんとも言えません。

 

特別に好きだったり愛情を与えたい人がいれば、当面それで幸せなのであれば、何も親鸞がどうこう持ち出すことのほどではありません。

 

パソコン売ったのと同時にクレジットカードの解約もついでにやってこようと出かけたのですが、クレジットカードの解約はクレジットカードとキャッシュカードの一体型のカードだと解約したときキャッシュカードまで使えなくなって、キャッシュカード機能のみのカードが手元に再発行で届くまでに何週間か時間がかかるみたいでそれだとその間こまるので結局、手続きはしませんでした。

 

ここらへんで神様からストップがかかったように僕は解釈しています。

 

便利なものをなくしすぎると、それはそれでみえてこなくなるものがある、と。

 

ただ単純にクレジットカードが便利というよりあったら使ってしまいそうで支払いがもういやだというだけの理由だったのですが、クレジットカードはまたいざつくろうというときになったら審査とかあるし、ただたんに使わなければいいだけの話なので、そうしようと思います。

 

僕はそう計画していたわけではなく転んだ方に運というか福をみるようなそういうところが昔からあって、今回もクレジットカードはいざというときに、となんだかアドバイスをもらったように感じたのでした。

美意識の有言実行にはついていけない。

自分が持っているというか信じている価値観ってあるじゃないですか。

 

僕は人と会うたびにそれらが少しずつ変化していくのを感じます。

 

これはまだ若い年代のくくりに入る証拠なのかもしれません。

 

歳をとると自分の生き方を、たとえばそれまで50年間で築き上げてきたものを否定されると人間はいやな気分になる。だからそうは考えずに自分がとってきた道は正しかったと肯定し、明るい老後を迎える。

 

健康上はそっちのほうがすぐれているように思うのですが、僕はなんという言葉で表現したらいいのかわからないのですが、その価値観が歳をとっても揺らぐような誰かに会いに行く人が、賢者というかあるべき道のような気がしています。

 

僕は実は世の中にいる人は全員なにかしらの病気であり、なにかしらの哲学者であるという認識を、先日、お会いした人のお話をきいて抱きました。

 

僕は確かに統合失調症ですが、そういう意味においてはマイノリティではなく、病名がつけられるくらいなので、マジョリティなのかもしれません。

 

健常者には健常者なりの悩みとか苦悩があって、そういったものが統合失調症患者には共通のものとしてあるものもあればないものもある。

 

統合失調症患者からしてみたら、健常者の悩みが病的に思えることもある。

 

世の中の大きな犯罪をおかしている人間の大半は統合失調症ではありません。

 

話が変わりますが、先日お会いした人は、女性の方なのですが自分の遺伝子を残すのが嫌だからという理由でこどもをつくらないと宣言していました。歳は40前後の方です。

 

僕はそういうデリケートとよべるような類のことを宣言する人は、実はそこに幸せを感じていないのではないかとかんぐってしまいます。

 

このあたりは言語哲学の問題なのでどうも専門家ではない僕は直感でしか言えないのですが、

 

自分が本当に心のそこから幸せなときっておそらくそれを口にしないものなのではないかと。

 

僕の認識ではそうなのです。

 

だって何かしらの思想のもと、こどもを作らない選択をするのはそれが自分にとって利益だからでしょう。

 

そういう利益はふつう公言しないし、あえてそう宣言しているところに不幸性もみてとれてしまいます。

 

みんな他人と結局は自分を比べているわけなんですね。

 

でも僕は価値観が揺らぎました。

 

なぜなのかはあまりよくわからないのですが、おそらくそのこどもをつくらない宣言に美意識をみたからだと思います。

 

誰かの美意識を垣間見る瞬間は、なんというか踏み込んではいけない領域のような感じがします。ただ美意識の有言実行には僕はついていけません。

 

有言実行というと肯定的な価値観のように広まっていますが、口ではああ言っているけれど、行動をみるとこんなところがあるよね、のパターンに僕は憶測を働かせてあれこれ現実にはそうじゃないかもしれないけれど、可能性としての捉え方のほうに生きている喜びを感じたりする。

 

僕は自分の意見を最後にその方にこう伝えました。

 

「僕は統合失調症で遺伝する影響もあるのでこどもをつくるとしたら、生まれたこどもが生きていることを全肯定して生きられる世の中であれば、喜んで結婚してこどもをつくりたいと思うのですが、そういった社会は永遠にこないので、結果的に理想の前に敗北するのではないかと」

 

僕の場合、これは美意識ではなく、ただ率直に思っていることを述べただけです。

 

そしてこうも伝えました。

 

「そういった社会の方の偏見や軋轢をなくす活動は非常に立派だと思っていますが、僕は今のところそういった障壁は障壁だと認識して、その中で生まれてくる文芸作品だったり科学上の発見だったりの方に人間の未来を感じます」と。

 

その方は、魅力的な笑顔でこういいました。

 

「そうするとその軋轢とか障壁が、生まれた作品から振り返ってみると輝いてみえますね」と。

そのとおりだと思います、と僕は答えました。

毎日パソコン触っている人がパソコンを売ったらどうなるんだろう。

パソコンって使用用途が多すぎてそれがなくなることによるデメリットが把握しづらいんですね。またメリットも不透明です。

 

僕はスマホを持っていないので、DIGNOケータイというガラホなのですが、この端末だと動画は再生できない。

 

よってエロいやつとかSNSで作曲動画をアップしている友達の作品とかyoutubeとかyoutubeで400円とか払ってたまに観ていた映画とか、それらが見れなくなります。

 

でもこれはデメリットなのでしょうか。

 

ある便利だなと思うものがなくなっても人間なんとかなる。

 

僕の場合、完全にネットから断つのは難しそうなので、DIGNOケータイのガラホだけは残そうと思うのですが、パソコンをいざ手放すとなると、たとえばこのブログだって書けない。

 

まあ漫画喫茶とか行って書いてもいいわけなのですが、お金がわずかでもかかってしまいますね。近くにあるわけでもないので書きたいことをいつでもすぐに書けるわけでもない。

 

それは念頭におきながら、僕が注目しているのはパソコンという体を動かさずに消費するコンテンツを摂取するのをやめた場合、極めて昔のそれも幼少時代の感覚が戻るのではないか、と。

 

もちろんこれは僕の幼少時代です。今の子たちは幼少時代からなんかしらの端末がありますから、ちょっと状況が違いますが、僕が小さいころはせいぜい電子手帳だったので、僕はサッカーに明け暮れている子供でした。

 

そのころになんとなく戻れるような気がする。

 

面白いコンテンツを得ようと思ったら、出かけようとするんじゃないかと思うんですね。

 

映画を障害者手帳を提示して1000円で観てもいいし、家にいてとにかくパソコンをいじることができないのであれば、休みの日なんかは犬の散歩だけ済ましたら街に繰り出すようになるんじゃないか、と。そうすると感性というか物の考え方が、昔の人に戻るのかもしれません。僕の両親くらいの世代に。

 

ただデメリットの方に、パソコンがなくなると一見、物が減ってミニマルに近づくようになるのですが、実際は電子版でいろいろパソコンに入っているわけです。電子版で買った本とか、書類とか、写真とか。

 

だからパソコンがなくなって、逆に物が増えるとなると僕にとってそれは不本意なんですね。さあどうするか。

 

僕の中で使わずに置いておけばいいという選択はあるようでないのです。

 

僕は何か便利なものがあったらそれを我慢とかできずに使ってしまいます。

 

パソコンが傍にあったら触ってしまいます。

 

困ったものです。

 

三島由紀夫が天皇を崇拝した理由。

あらゆる物事になにか指針がほしかった。

 

行動をする際に意義のあるものとしたかった。

 

三島にとってのそれは文章であり、物語であり、アイデンティティであった。

 

日本人として生まれたことによる誇りは、流麗な文章が読者に受けることによって満たされていたはずである。

 

なにしろ文壇のトップに立ったわけだから。

 

それでもなお小説を書こうと構えると、そこに「生の倦怠」を感じると表現した。

 

さて「生の倦怠」とはなんであろう。

 

これはなんら人間の進歩性に寄与しない姿勢のことである。

 

三島がもっとも嫌悪したこの有様に、まさに自分が取り付かれようとしたとき行動を起こすしかなかったのである。

 

三島の不運と呼べるものがあるとしたらここにある。

 

三島は「安心している人間が嫌い」とそう公言することで、多くの野心ある人間が三島について行った。するとそれに応えなければ、自分が確立したアイデンティティも崩れてしまう。

 

「安心している人間」は、三島の中で、戦争体験と比較したときに、もっとも顕著に現れるのであって、平時には「安心している人間」とはふつうの人のことなのである。

 

三島は戦争を知っていた。これが二つ目の不運である。

 

そして最大の不運と呼べるものは、天皇を唯一の絶対の存在としておいたことだった。

 

三島のロジックによれば、この世の中で唯一絶対価値のあるものなどない。

 

なぜならたとえそれがあったとしたら、唯一絶対の価値であるゆえにその価値がしだいに立場上ゆるぎないものとなって、必ず堕落してしまうからである。

 

どんな権威にも揺るがない姿勢をみせるのがアイデンティティの三島のような人間の場合、残る道は天皇のほかない、あの戦時中ただお国のためにというフレーズで戦地に赴いていった人々を、その場所に置かせておけたのも、なにもかも天皇という象徴があったからである。

 

もしそれがまた平時においても復活したのであれば、少なくとも「生の倦怠」はない。また戦争がしたいと思っていたわけではなく、日本の未来を考えざるをえなかった。

 

僕は三島という人間はその一点において、非常にまじめだと思うのだ。

 

ふつうであれば、よりどころを自分が生み出す作品に投影し続ければいい。

 

だが三島は自分自身をよく観察しており、その観察の中でときおりみる、許せないほどのなまぬるさを発見するともう耐えられなかったのである。

 

天皇さえいてくれれば。自分の思考のすべての大元となった日本という一国の象徴さえ守れれば、それが全人生の目的になる。

 

そうして見事に散ってしまった。

 

三島のロジックははじめから破滅を含んでいたことを、おそらく若かりし三島は知っていて、だけどそれをすぐに行動に移せずに間接的に小説の中で書いた。

 

僕は、若かりしころにそう知ってしまったときの、自分の人生を結果的事実のとおりに

運ぶことになるだろうとそうはじめて予感したときの三島の心中を思うと、そこにはなんともしれない運命の有様をみるのである。

 

今、世にいるお父さんお母さんたちが、こどもに三島のように生きなさいとは決して言わないだろう。

 

だけどそういわない健全なお父さんお母さんが増えれば増えるほど、三島の価値はどんどん高まっていくという構造があるのは事実である。

武蔵野線の恋。

昨日、仕事帰りに、武蔵野線に乗っていたのですが、もう夜も遅い11時前後の時間帯にあるカップルが乗ってきました。

 

僕は武蔵野線に乗る度に、汚い電車だな、と思います。

 

東京競馬場へ直結する電車だから土日は薄汚れたジャンパーを着たおじさんたちが競馬新聞片手に乗り込んできます。

 

もちろん朝はまだしも夜の時間帯の車内は、まず大体ひとつの車両に一本はビールか酎ハイの缶が転がっていて、たいがいそうやって転がっている缶にはまだ少し液体が入っていてそれが電車が一駅ごとに速度の上げ下げを繰り返すうちにたらんと流れるわけなのです。

 

そしてこれもまたお決まりのパターンなのですが流れてきた液体には気づかないだらしのない恰好で寝落ちしているおじさんがその液体の前にふんぞり返っていたりします。

 

昨日もちょうどその例にもれず、同じような状態の車内でした。

 

僕がおもむろに携帯のワンセグをみようと思ってポケットから携帯を取り出したときにまず女の人が目の前を通り過ぎました。

 

女の人はすとんと三つくらい離れた右隣に座るとちょうどそこに背の高い男の人も隣に座りました。この背の高い男の人が女の人と同時に車内に入り込んできたことに僕はワンセグをみようとしていたので気づかなかったのです。

 

二人は二駅しか乗っていませんでしたが、男の人の方の顔は特段ハンサムというわけではなかったのです。そして女の人の方の顔は長い前髪でよく見えませんでした。

 

僕はそのままワンセグを見続けていたらよかったものの、なぜかそのときはその”二人の容姿に至らない点があるところ”が、僕をひきつけました。

 

なにしろ、乗っている電車が武蔵野線です。この電車に美男美女すぎるカップルは似合いません。それでも女の人はきゃしゃでよくみると鼻が高かったし、男の人はすっきりとしたスーツ姿でそれ相応に見栄えするものがありました。

 

二人は小声で会話し、男の人が女の人の頭を撫でて、やがて駅に着くとじゃあまたと言って男の人が去っていきました。

 

もう一つのポイントはこの二人がどうしたってもうそこまで若くないという事実がますます僕をひきつけました。

 

僕にはわかることがあります。それはまだ若い二人の場合、どちらかがなんらかのその一緒にいる相手以外のことをずっと考えてしまうかもしれない未来の可能性を。

 

その可能性はちょうど武蔵野線のあの夜の光景、車窓からうつりゆく景色に似ているかもしれません。

 

見慣れた人にとってはなんともない風景ですが、僕はまだ武蔵野線に乗り始めて一ヶ月も経っていません。

 

人が多い駅もあれば少ない駅もある。高い都会っぽいビルがみえたと思ったら、いかにも場末な汚らしい看板のあまり流行っていなさそうな美容院が見えたりもします。それらに見慣れていない人が景色を凝視してしまうのと同じように若い男女のカップルにもその相手以外のものを凝視してしまうことは自然なことなのです。

 

男の人は、駅に着いておりてから、もうそんなことをする年齢でもないだろうに、電車が去るまで女の人の方をずっと向いていました。

 

男の人が去ったあとで、すぐに女の人はスマートフォンを取り出し、文字を入力しています。

 

僕には確信があったのです。彼女は間違いなく、あの男の人に「ありがとう」とかそういった類の言葉を送信している、と。その確信は、”何かを疑わなくても済むという安心感に満ちた世界が僕にもある”ことを教えてくれたのです。

 

その後、僕はぼーっと考え事をしながら、あの液体が出ている空き缶を眺めているうちに、気づいたらもう女の人も電車から降りてしまったみたいで、近くにはもうずっと長いこと乗っているふんぞり返ったおじさんしかいません。

 

僕はそのおじさんが数分でしたが僕がみた二人を何も知らずに熟睡しているところをみて、ますます安堵したのでした。そのおじさんには疑わなくてもいい世界とかきっとそういう概念はもうとっくの昔に忘れてしまって、今はもうどんな体勢でも寝れるという無神経さが、なんだかことさら長年生きている証のように思えて、それはそれで楽だな、と思ったものでした。

 

レジのクレジットカード処理、領収書発行、備忘録。

これは完全に仕事をするにあたっての僕の備忘録です。

 

先日学んだこと。

 

・どこのどんな種類のレジも一緒なのかもしれませんが、クレジットカードをお客さんから渡されると次のような処理になります。

 

①ICチップ付きのクレジットカードの場合。

→ピッピッとバーコードで商品をレジに計上する。ここまではふつうの現金での買い物と同じ。そこからお客さんがクレジットカード(ICチップ付き)を渡してくると、あの暗証番号入力ボタンのついたクレジットカードを差し込む機械(以下、機械A)にクレジットカードを差します。もう一つの機械(以下、機械B)で画面に現れる案内に沿ってボタンを押していき、モニターでさっき計上したお買い上げ金額を機械Bに入力する。すると機械Bの方の画面で暗証番号を入力してください、となるので機械Aでお客さんに暗証番号を入力してもらう。すると処理完了となって機械Bの方からお客様控え、加盟店控え、カード会社控えの三点のレシートが出てくる。お客さんにクレジットカードをまず返却し、お客様控えを渡す。商品を包んでお客さんに渡し、お礼を言いお客さんを見送ってから、レジでクレジットカードなので現計→清算ではなく信計→清算と操作し、開いたレジは閉じて、「再発行」というボタンを押すとレシートが出てくるので、加盟店控えとレシートをホッチキスで閉じて指定の場所へしまう。カード会社控えはそのままなにもせず指定の場所へしまう。

 

②ICチップのないクレジットカードの場合。

→①と違うところは、機械Aではなく機械Bに直接、クレジットカードをシュッとやる。

カード会社控えのレシートにお客さんのサインをもらう。あとは一緒。

 

③領収書をお客さんにお願いされた場合。

→「宛名」と「但し書き」をお客さんに尋ねる。「但し書き」の方はたいてい「お品代」となるので「但し書きはお品代でよろしいでしょうか」ときいてそれでいいという返事をもらい、「宛名」をレジのキーボードで打ち込む、「お品代」と打ち込んでOKボタンを押すと領収書が出てくる。あとは店のハンコを押して、お客さんにこれでいいか確認してもらって終了。

 

領収書の依頼は滅多にこないやつなのですが、クレジットカードは一日に一回は遭遇するとのこと。

 

慌てずにやればできるわけなのですが、頻繁にはこないだけに(できる先輩に訊くと、お買い上げの七割現金、三割クレジットという統計があるそうです)

 

慣れるのが大変である。

 

でもこれができるようになったら、とりあえずレジでの接客販売の仕事はどこでもできるようになるのかな。

 

そういう”普遍性”がある仕事は心を前向きにさせてくれる。

 

ちなみに最近、たまにみるレジでの細かい操作をせずに、お客さんからもらった現金をほいっと機械にお札と硬貨とわけて放り込むと自動的にお釣りを数えなくても出てくるレジがありますが、あれってやっぱり高価なレジなのかなとか思ったりします。

 

だってはるかにあれ、楽で速いじゃないですか。コンビニですらそれは導入されていないので(僕がみたのはスーパーだった気がします)、旧来のものを使い続けた方が、合理なんでしょうね。スーパーはレジならびますからね。そこまででもない店はコストをかけてそのレジ導入しても、その分、売り上げでまかなえないのでしょう。

ウイークタイとストロングタイ。

たくさんのコミュニケーションの方法があるなか、ある共通の本を読んでそれについてどう思ったかを話す、コミュニケーションは一味違ったものになります。

 

僕はあんまりリア充的な時間を一緒に過ごす友達はいないけれど、

 

本にまつわることを意見交換できる人はいます。

 

ウイークタイとストロングタイという話をご存知でしょうか。

 

アメリカで調査したところ、貧困層というか、文化度の低い生活をしているコミュニティでは、そこで生活する人のほとんどがストロングタイ、つまり地元の昔からの友人や親族や近所の知人とだけ交流しているという実態があるそうです。

 

ウイークタイというのは、年に一度、会うか会わないかのような人。

 

実際、会ったことはあるし、どういう人なのかも、今だったらSNSなんかで知ることができるけれど、頻繁には会わない人のことを指します。

 

このウイークタイをいかにもっと手広く交際範囲として持って、長く親交を深められるかが大事と多くの識者がいいます。

 

僕の場合は、本の話ができる人のほかに滅多に会わないけれど、高校時代の教師もいます。

 

今は教師をやっておらず、ふつうに主婦として暮らしているのですが、たまにメールをして、どんな活動をしているのかや、悩み相談などをきいてもらったりします。

 

グッドウィルハンティング』という映画だったと思うのですが、

 

優秀な知能を持ちながら肉体労働に終始している青年と苦悩を抱える年上の学者との交流を描いた映画があります。

 

あれがまさにウイークタイの理想的な目的なわけです。

 

肉体労働ばかりをしていたら、肉体労働の生活で埋め尽くされてしまいます。

 

もちろん肉体労働を否定しているのではなく、ただ現実的に肉体労働の環境では

 

アカデミックな知識を持ち合わせた人間との交流は得難いと言っているのです。

 

そういうのは僕もこれまでの経験でわかっています。

 

別に優劣があるわけではありません。

 

肉体労働で成功する男もいるだろうし、またそういう人の中でも立派な親になる人はたくさんいると思います。

 

ただ肉体労働が肉体労働のままで過ごしていった場合、その人は極端な例ですがノーベル賞はまずとれません。

 

人間には向上という目的があるわけなんです。

 

一つできることがある。次にできることがある。それらが10個あったとして、その10個をずっと何年も何年も繰り返しているだけのところに知性はないのです。

 

その10個ができる背景にある知識や情報を活用して、何かに応用するのがステップアップの道です。で、僕はたまに思うのですが、このステップアップ、いわばホワイトカラーへ、たとえばマネジメントの方の道へ向かうために必要なのは大学卒業資格ではないと思うのですね。

 

ここで必要なのは、おそらく本を読むことだと思うんです。大学で学んだことは学んだことで確かにあるでしょう。でもそれだってどんどん社会は動いているわけですから、キャッチアップしていかないことには卒業資格なんでただの紙にすぎません。

 

本を定期的に読む。情報を仕入れるということです。そして感じたこと、思ったこと、学んだこと、ここは難しいと思ったところを、アウトプットして述べたようにウイークタイでつながっているそういった話ができる人へメールでもする交流は、人生を豊かにしてくれます。

 

ストロングタイはそれ自体はそれはそれとしてあっていいと思います。

 

むしろないと天涯孤独でしょう。大事なのは自分にはないものを持っている人との弱い交流を絶やさないことかと思います。