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がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

レジのクレジットカード処理、領収書発行、備忘録。

これは完全に仕事をするにあたっての僕の備忘録です。

 

先日学んだこと。

 

・どこのどんな種類のレジも一緒なのかもしれませんが、クレジットカードをお客さんから渡されると次のような処理になります。

 

①ICチップ付きのクレジットカードの場合。

→ピッピッとバーコードで商品をレジに計上する。ここまではふつうの現金での買い物と同じ。そこからお客さんがクレジットカード(ICチップ付き)を渡してくると、あの暗証番号入力ボタンのついたクレジットカードを差し込む機械(以下、機械A)にクレジットカードを差します。もう一つの機械(以下、機械B)で画面に現れる案内に沿ってボタンを押していき、モニターでさっき計上したお買い上げ金額を機械Bに入力する。すると機械Bの方の画面で暗証番号を入力してください、となるので機械Aでお客さんに暗証番号を入力してもらう。すると処理完了となって機械Bの方からお客様控え、加盟店控え、カード会社控えの三点のレシートが出てくる。お客さんにクレジットカードをまず返却し、お客様控えを渡す。商品を包んでお客さんに渡し、お礼を言いお客さんを見送ってから、レジでクレジットカードなので現計→清算ではなく信計→清算と操作し、開いたレジは閉じて、「再発行」というボタンを押すとレシートが出てくるので、加盟店控えとレシートをホッチキスで閉じて指定の場所へしまう。カード会社控えはそのままなにもせず指定の場所へしまう。

 

②ICチップのないクレジットカードの場合。

→①と違うところは、機械Aではなく機械Bに直接、クレジットカードをシュッとやる。

カード会社控えのレシートにお客さんのサインをもらう。あとは一緒。

 

③領収書をお客さんにお願いされた場合。

→「宛名」と「但し書き」をお客さんに尋ねる。「但し書き」の方はたいてい「お品代」となるので「但し書きはお品代でよろしいでしょうか」ときいてそれでいいという返事をもらい、「宛名」をレジのキーボードで打ち込む、「お品代」と打ち込んでOKボタンを押すと領収書が出てくる。あとは店のハンコを押して、お客さんにこれでいいか確認してもらって終了。

 

領収書の依頼は滅多にこないやつなのですが、クレジットカードは一日に一回は遭遇するとのこと。

 

慌てずにやればできるわけなのですが、頻繁にはこないだけに(できる先輩に訊くと、お買い上げの七割現金、三割クレジットという統計があるそうです)

 

慣れるのが大変である。

 

でもこれができるようになったら、とりあえずレジでの接客販売の仕事はどこでもできるようになるのかな。

 

そういう”普遍性”がある仕事は心を前向きにさせてくれる。

 

ちなみに最近、たまにみるレジでの細かい操作をせずに、お客さんからもらった現金をほいっと機械にお札と硬貨とわけて放り込むと自動的にお釣りを数えなくても出てくるレジがありますが、あれってやっぱり高価なレジなのかなとか思ったりします。

 

だってはるかにあれ、楽で速いじゃないですか。コンビニですらそれは導入されていないので(僕がみたのはスーパーだった気がします)、旧来のものを使い続けた方が、合理なんでしょうね。スーパーはレジならびますからね。そこまででもない店はコストをかけてそのレジ導入しても、その分、売り上げでまかなえないのでしょう。

ウイークタイとストロングタイ。

たくさんのコミュニケーションの方法があるなか、ある共通の本を読んでそれについてどう思ったかを話す、コミュニケーションは一味違ったものになります。

 

僕はあんまりリア充的な時間を一緒に過ごす友達はいないけれど、

 

本にまつわることを意見交換できる人はいます。

 

ウイークタイとストロングタイという話をご存知でしょうか。

 

アメリカで調査したところ、貧困層というか、文化度の低い生活をしているコミュニティでは、そこで生活する人のほとんどがストロングタイ、つまり地元の昔からの友人や親族や近所の知人とだけ交流しているという実態があるそうです。

 

ウイークタイというのは、年に一度、会うか会わないかのような人。

 

実際、会ったことはあるし、どういう人なのかも、今だったらSNSなんかで知ることができるけれど、頻繁には会わない人のことを指します。

 

このウイークタイをいかにもっと手広く交際範囲として持って、長く親交を深められるかが大事と多くの識者がいいます。

 

僕の場合は、本の話ができる人のほかに滅多に会わないけれど、高校時代の教師もいます。

 

今は教師をやっておらず、ふつうに主婦として暮らしているのですが、たまにメールをして、どんな活動をしているのかや、悩み相談などをきいてもらったりします。

 

グッドウィルハンティング』という映画だったと思うのですが、

 

優秀な知能を持ちながら肉体労働に終始している青年と苦悩を抱える年上の学者との交流を描いた映画があります。

 

あれがまさにウイークタイの理想的な目的なわけです。

 

肉体労働ばかりをしていたら、肉体労働の生活で埋め尽くされてしまいます。

 

もちろん肉体労働を否定しているのではなく、ただ現実的に肉体労働の環境では

 

アカデミックな知識を持ち合わせた人間との交流は得難いと言っているのです。

 

そういうのは僕もこれまでの経験でわかっています。

 

別に優劣があるわけではありません。

 

肉体労働で成功する男もいるだろうし、またそういう人の中でも立派な親になる人はたくさんいると思います。

 

ただ肉体労働が肉体労働のままで過ごしていった場合、その人は極端な例ですがノーベル賞はまずとれません。

 

人間には向上という目的があるわけなんです。

 

一つできることがある。次にできることがある。それらが10個あったとして、その10個をずっと何年も何年も繰り返しているだけのところに知性はないのです。

 

その10個ができる背景にある知識や情報を活用して、何かに応用するのがステップアップの道です。で、僕はたまに思うのですが、このステップアップ、いわばホワイトカラーへ、たとえばマネジメントの方の道へ向かうために必要なのは大学卒業資格ではないと思うのですね。

 

ここで必要なのは、おそらく本を読むことだと思うんです。大学で学んだことは学んだことで確かにあるでしょう。でもそれだってどんどん社会は動いているわけですから、キャッチアップしていかないことには卒業資格なんでただの紙にすぎません。

 

本を定期的に読む。情報を仕入れるということです。そして感じたこと、思ったこと、学んだこと、ここは難しいと思ったところを、アウトプットして述べたようにウイークタイでつながっているそういった話ができる人へメールでもする交流は、人生を豊かにしてくれます。

 

ストロングタイはそれ自体はそれはそれとしてあっていいと思います。

 

むしろないと天涯孤独でしょう。大事なのは自分にはないものを持っている人との弱い交流を絶やさないことかと思います。

元名大生のタリウムについて思うこと。

生きているんだから何かインチキしているのに違いない。太宰はこう残して死にました。

 

またサリンジャーは小説の中でホールデンという類まれなる鋭敏なキャラクターを登場させ、書いた本人は家に引きこもりました。

 

カントは毎日、定時になると散歩に出かけ、誰にも性的欲求を抱くことなく、独身のまま論文を完成させ、幸せだったのか不幸せなのかよくわからない、人生これでよし、という言葉を残しています。

 

金子光晴は、妻子を捨ててまで、言語芸術に身をささげ、

 

ヘミングウェイは晩年、体調の悪さから銃で自殺しました。

 

あげたら、キリがないのですが、彼らはみな作品を残してそれが認められています。

 

現代において作品が認められるのは、その不幸性や悲劇性においてではありません。

 

合理的で進歩性があるかというところが大事になってきます。

 

先日、元名大生の無期懲役判決の記事を読みました。

 

彼女はタリウムを購入して手元においておくと”うっとりした”と判決時にこたえています。

 

僕はその記事をみたときに、この女の子は馬鹿だとは思いませんでした。

 

というのも、上にあげたような人たちの誰かが、”作品”の中の主人公として登場させるような人物に思えたからです。

 

殺人にも使えるタリウムに魅了される。

 

ふつうの女の子だったら、新商品の化粧品だったりするところが、タリウムです。

 

そこには悲劇性も不幸性もない、あるのは”特殊”だという感覚です。

 

合理性や進歩性になんら関係しない感覚のことです。

 

僕はその存在が気になります。

 

この世の中は実は、不幸でもなく悲劇でもなく合理的でもなく進歩性もないなにかで

 

溢れているような気がしたからです。

 

それは作品の中にはたくさんあります。

 

小説を読むたびに接する感性の対象は、無数にあります。

 

元名大生のタリウムは、現実のそういった対象として象徴的です。

 

ただ一点、これは相容れない価値観だな、と思ったのは”実際に人を殺してしまった”ところです。

 

あの元名大生のタリウムは、

 

「これを投入すればいつでも快楽殺人ができる」という”期待”のままで放置しておくことに価値があった。少なくとも彼女の場合。

 

これが不確実性を生きる人間の寸止めの感性です。

 

目的がえられないところに美を見出す人間は、尊い

 

そこがきっと若い人間にはわからない。

 

僕は20代はなににおいても、醜い期間だという捉え方をしてしまいます。

 

現代がそんな殺人とか新聞の社会面のところにでかでかと記事がのる事件のほかに考えたり、学ばなければいけないことがたくさんあるからです。

 

 人を殺すならタリウムやおのやそういった凶器ではなく、美しい文章を使った方がフェアですよ。

 

仕事をしていると怒られることもあれば褒められることもある。

仕事なんてしていなかったら、そんな出来事はありません。

 

僕は昔、こんな話を考えていたことがあります。

 

ここにひとりの孤独な老人がいるとします。

 

老婆だとしましょう。

 

老婆は主人に先立たれ、お金には困らないけれど、生きがいがありません。

 

毎日、寂しい思いをしています。柔和な性格の老婆です。世間が煩わしいとこれまで主人としかほとんど過ごす時間をもたないで、生きてきました。亡くなった主人も温和な人で、これといった浮き沈みがなく、人生をその歳までおくってきました。

 

あるとき、飼っている小犬をいつもの道で散歩させていると、たまたま近所の主婦のグループ数人に遭遇します。

 

あなたが飼っている犬が吠えるのがうるさい、とその中の一人が注意しにきました。

 

老婆はそのとき不覚にもムッと腹が立ちました。それなら、あなたたちのおしゃべりだってマンション内に響いている、と。

 

老婆はそういった気持ちを正直に言いました。

 

老婆が住むマンションのはす向かいの一軒家には同じように犬が好きなおばさんがいます。

 

そのおばさんは、老婆と主婦のグループとのいざこざの一部始終をきいていました。

 

老婆が小犬を連れて、マンションにまで帰ろうとしたときに、おばさんは家から出て、老婆に話しかけに行きました。

 

二人はともに犬を飼っているという他にお互い主人を亡くしているという共通の事実がありました。

 

それ以来、二人はたまにお互いの家を行き来するようになり、

 

やがて老婆の小犬を、庭付きのおばさんの家で、うるさいと苦情がきそうなときには預かってもらえるようになりました。

 

そうして交流が生まれ、老婆は次第に孤独ではなくなってきたのです。

 

近所の主婦の人たちに忌み嫌われることもなくなり、小犬を散歩させているとかわいいと寄ってくるこどもたちも現れるようになりました。

 

そうして毎日、小犬と暮らし、また親しくつきあってくれたはす向かいのおばさんと過ごしているうちにあっという間に最晩年を迎えたのです。

 

老婆は家で小犬を抱きながらロッキングチェアに座りうつらうつらしているときに、こんなことを思います。

 

「あのとき、もし”怒り”を抱かなかったならば今ほどは幸せな最後は迎えなかったかもしれない。私はこれまでの人生でほとんど誰かに対し怒ったことなんてなかったし、怒られたこともなかった。あの神経質な主婦の一人に怒られたことが、その後の生活の”はり”のきっかけになった。善く生きるために誰かから不快な思いをうけることが必要なときもある。私を孤独から救ってくれた人は”二人”いる。はす向かいに住むおばさんと、あの自分たちのことは棚に上げてこの子をうるさいと無神経に注意してきた人その人だ。私の最晩年は幸せだった。」

 

老婆は数日後に亡くなり、犬ははす向かいのおばさんが引き取ることになった...というようなお話です。

 

 

人間はある程度余裕がないときに大きな力が発揮されることがある。

あんまりこういう例はちょっと馬鹿みたいなんですけど、

 

昨日、僕は職場からバスを乗り継いで駅まで着いたんですが、最寄り駅までの電車の発車時刻まで10分くらいしかないなか、ダッシュして煙草が吸えるところまで行き(なにしろ仕事おわりに煙草を吸うところが物理的にないうえにバスの時間がせまっているので煙草をまともに吸えないんですね)

 

そのまま吸い終えたらマックまで行ってダブルチーズバーガーセットを買い(これもまた夕食を食べられる時間を逸することが仕事の都合上よくあるんです)

 

それを持って、残り3分でマックからホームまで発車の電車に滑り込んだんですが、

 

意外とですね、これがはやく走れるものなんです。

 

フルタイムの仕事で疲れているはずなのに、階段とか一段飛ばしで駆け上がれます。もちろんまわりにほとんどいない状況ですが。

 

火事場の馬鹿力といいますが、火事までのせっぱつまったものはないにしろ、確かにそういうとき人間はふだんならできないようなことができる。

 

映画『アキレスと亀』にはこの原理を最大限芸術作品に落とし込めないかという発想の主人公が出てきます。

 

”いい絵”を描くために、まず精神状態を人工的にぎりぎりのところまで持っていくのです。

 

その映画の中では、風呂場で潜水していました。息苦しくなったところで、湯船から顔をだし、洗い場に立てかけてあるキャンパスと筆をとって、かき始めるのですが、これはまあコメディのひとこまです。

 

それでも、発想の根底にあるもの自体は間違っていない。

 

反発力というか、そういうテコの原理みたいなので、能力が発揮されることはある。

 

このさい、実はつらいだろうなあと思っているのは、行動をしていないときの、たとえばそういうことをしなければいけないと考えている前日の頭の中だけなのです。

 

当日になってみて、身体や頭を動かしているときにはそんなにつらいとは感じないものなのです。

 

不思議ですよね。

 

人間は目的があると、強いというのは本当かもしれません。

 

頭の中ではいくらでも思考が続きますが、それはときに暴走もするし、異様な幸福感も味わえる半面、つらいなあという感覚も想像できる。

 

それに対処する方法は、行動を起こすことなのですが、そればかりに注視していると、

 

結局『アキレスと亀』にあったように、絵もなにもかもうまく行きません。

 

そういうこともあるんだなあくらいに思って留めておくだけで、まあ誰かに伝えたり教えたりしても意味のないものなのかもしれませんが。

 

 

 

 

一日一円も使わない日を設けるのは有意義。

お金ってとくにあぶく銭の場合、金は天下のまわりものだみたいな感じで使ってしまう性分が僕にはあります。

 

誰かからのプレゼントだったりで一万円とかもらうとまず貯めません。

 

ここに関しては前回の投稿にある堀江方式にのっとっている。

 

僕はポイントマニアとか値引きセールマニアみたいにはなりたくないんですね。

 

あれはあれで一見堅実にみえて、大局を見極める力が衰えていくものなんです。

 

これは何も思いつきで言っているのではなく僕はまさにその体験者だからで、

 

昔は思っていましたよ、とりあえず500万円貯めたらアパート経営をして、月五万円くらいの収入と障がい者年金で生きられるんじゃないか。

 

だからまだ社会や人間について何も知らないのにせっせと貯金に励んでいたときがあります。

 

で、結果どうなったかというと、僕の場合、病気になってその治療に貯めたお金の大半を費やしたんですね^^;

 

もうあの状態には戻りたくないんですね。日々、ちょっとでも自分の成長につながったり、発見があったり、今後の些細なことであれ、自己投資になるのであれば、お金はちょくちょく使った方がいい。

 

特に仕事をはじめるとまずはこういう病気だとストレスをためるのはよくないわけですから。

 

ただそれをよしとして、お金をどんどんまわすというのも違います、当たり前ですが。

 

ここも中庸の概念ですね。

 

そうなんです、何度もいうようにバランス感覚。

 

いいかえれば、すべての何かしらの勉強と名がつくものは、知識でもお金でも交友関係でもなんでもそうですが、このバランス感覚をどんどん自分の味方につけるために行っているところがあります。この勉強はきっと一生涯続くものなのでしょう。

 

そのためには気を抜いている期間は一週間もあると僕はだめになります。

 

一日のうちのどこかで落ち込んだり、またはうれしかったりというサイクルが、躁鬱にならない程度にあるのが、一番健全な道のりかと思います。

 

で、昨日、僕は仕事が休みだったので丸一日寝てました。

 

たくさん寝られるのも、体力がある証拠と言われますから、それはそれでうれしいことでした。

 

体力はあった方が、生きやすいですからね。なにせ精神やられて体力もないとなかなか生きていくのが大変です。

 

で、さすがに丸一日寝ると、お金なんて使いません。

 

当たり前ですが。

 

そういう日を設けた方がいい、と何かの本に書いてありましたが、これは別にそうすることによってなにか状態がよくなるとかそういう医学的科学的な論拠はないとは思うんです。

 

次の日にまとめてなにかそのお金を使わなかった分、使ってしまうという可能性だってある。

 

でもなんていうか、沈静の期間だと思うといいかもしれません。

 

クリスチャンが一週間に一度、教会に行くようなものです。

 

僕は自分の中で信じている神様的なのはいますが、メジャーな宗教だと信じたいと思うものがないし、きっと今後も信じないでしょう。

 

でもそういった宗教に関係ない人でも、身をあらためる的な時間は有意義かと思います。

 

僕の場合、それは瞑想でもなく、運動でもなく、ただお金を使わずになるべく長い時間寝ることなのかも。

 

そういう日がたまにあるとたくさん寝ることで、身体のコンディションが戻りますし、

 

あと煩悩も翌日、少し落ち着いています。

 

でもこれもまた、寝よう寝ようとばかり思っているとうまくそうできないものです。

 

コツがあって、ああちょっとなんかいろいろだるいなあ、と思ったときがチャンス。

 

そのダルさに思い切って身をまかせるのです(笑)

 

変にふんばるのではなく、今日は沈静期間なんだと思って、身をふとんにゆだねる。

 

こういう言い方が適切かはわかりませんが、そうすると一月に一回くらいは自然とたくさん寝られてごはんもてきとうな家にあるものを食べて、だらだら時が経過するときはやってくる。

 

変に抗うのではなく、自然のまま自分を放置するみたいな感じのテクニックです。

『すべての教育は「洗脳」である』を読んだ。

 

 

本書、よみました。

 

僕が一点だけ相容れない箇所は、「一日の時間をすべて楽しいものにできないか」

 

という発想のことです。

 

これはいくつかあるなかの一つとはいえ大きな障壁かもしれません。

 

好きなことで仕事をする。でも苦痛は伴った方がいいのではないか。

 

きっと堀江貴文は自分で自分をコントロール術を身に着けているのだと思います。出所後とくにそうなのかもしれません。

 

僕はそんな楽しい状況になったら、なにか人生で見落としてしまいそうになるものが増える気がする。

 

そしてそれは、あとになってからじゃ取り返せないような気がする。

 

堀江貴文は間違いなく反論するでしょう。

 

そんなものは、好きなことで稼げる人生の楽しさの方が凌駕するみたいな反論がかえってきそうです。

 

僕が言いたいことはただ一つです。それは世界人類全員がそういう幸せな生活をおくっているのなら、僕も喜んでそうします。またはそうできるように努力します。

 

ただ現状、シビアな状況に陥ってしまっている人が少数でもいる限り、好んでそうありたいとは思わないんですね。

 

で、まあ観点が変わりますが、

 

堀江貴文の本音は正論の部類だと思います。言論の周辺知識が豊富であるし、そのために頭を使う努力は怠っていないのでしょう。

 

ただ堀江貴文には、”そういう言説を担う社会的な役割がある”というところを見逃してはならないと思います。

 

人間、役割分担ですからね。

 

一番、うまくそういった言論がなせる人の一人なのでこういう本を書く。

 

書いてあることはいつものホリエモン節です。

 

ネットで好きなことが稼げる&会社も無駄だし無駄なものが教育含め多すぎる&合理的な選択をしよう。と続きます。

 

まあこれはこれで一つのコンテンツというか、そのまま社会が一気にこの流れに加速するとはあんまり思えないんですね。

 

というのも堀江貴文からちょっと下の僕らの世代でさえ、起業とかコンテンツで稼いでいるような人ってほんとに少数ですよ。

 

そのあたりの統計を意識しないと、いくら正論だとしても、”現実的”には困ったことになると思います。

 

だって正論ふりかざしても、いつかの記事で書いたように満員電車はなくならないでしょう。現金が無駄すぎると言って、クレジットカードがタイの屋台で使えるくらいだからほんとうはどこでも使えるはずだ!と言っても、

 

ふつうにそのへんにクレジットカードが使えない店って今でもそれこそ、一般の会社に勤めている人の割合くらいに多いわけですからね。。

 

堀江貴文はいつでも人間は最終的には合理的な選択をとってきた、と主張します。

だから自分が発言することで社会は変わるはずだ、と。

 

でもおそらくみんながみんな堀江貴文のような生き方になったら、またふつうに会社とかできる気がします。

 

人間ってそういう生き物です。