がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

時間が経つのが遅いと言っている全国のアルバイターに朗報がある。

時間が全然進まない。はやく仕事終わってほしい。

 

そう思っているシフト制で働いているアルバイターは全国にたくさんいるでしょう。

 

僕もそう思うときがあります。

 

というか誰だってそう思わないときはないでしょう。

 

人間なので束縛から解放されるのは気分が良いものです。

 

でも時間が経つのがおそいおそいとばかり考えていても、時間は一向に味方についてきません。

 

この際のもっとも合理的でなおかつ実効性が高い方法が一つだけあります。

 

それは単純で当たり前なことなのですが、時間いっぱいまで精いっぱい作業に真面目に打ち込むことです。

 

これはまた不思議なことで、時間が経つのがおせーなーとちゃらちゃらした感じで思っている不真面目な人間にこそ、あてはまる実効性のある方法なのです。

 

根がもっと真面目な人間は、そういうことをあんまり考えないかもしれません。

 

ふつうの時間の経ち方でふつうに仕事してふつうに帰れればそれでいいという人も中にはいるでしょう。

 

不真面目な人間にはそこにチャンスがあるのです。

 

時間が経つのが人より遅いと感じているのは損な不真面目ですが、それならば人一倍、死に物狂いというのは少しおおげさですが、

 

作業にとりかかって集中した方が時間はどんどん速く流れていきます。

 

その際に、ポイントがあるのですが、そのとりかかっている作業をどうしたら楽に安全に確実に仕事として成し遂げたという成果につながるようなところまでもっていけるかと”好奇心”や”工夫”を考えてとりかかると案外なんでもない作業でも、みるべきところがあったりするものです。

 

また前回の投稿同様、堀江貴文の話になりますが、堀江貴文刑務所の中で、オムツを折っているときに、僕が上述したようなことをずっと考えていたそうです。

 

それによって、刑務所内で模範生としての立場になり、いろいろ他のだらだらやっている囚人よりも、自由が少しずつ与えられていったという話だそうです。

 

これはものすごくヒントになる話です。

 

集中して作業をこなし、なおかつ時間が速く流れ、また社会的な報酬も得られる。

 

これほど理に適ったサイクルはありません。

 

そして繰り返して書くのですが、(もっともこの投稿に限って言えば、書いている僕自身に向けて書いているところがあります)

 

それはふつうに時間が経てばいいと思っている人よりも、はやく終わらせたいと言っている不真面目な人間の方にこそ、そういったチャンスがあるものなのです。

 

付け加えていいますが、その際に、俺はめっちゃ集中して完璧にこなしているぞ、などと思わず、先輩や同僚などの指示はその都度、真剣にきいて、それすらも、全部、作業を上手くこなすための材料とするのがほんとうに賢明な人です。

 

作業がない場合は、むしろ自分から仕事ないですかとききにいくくらいな方が、時間はかえって速く経ちます。ただその姿勢は度が過ぎるといい人すぎるとなってしまって過剰に仕事がふってきて時間内にかえれないこともあるので、そのあたりは間の悪そうなときはやめるなど、少し見極めが必要になってきますが。

見切り発車したものは過去に全部うまくいった。

大学受験のときでした。

 

これが一番最初の見切り発車。

 

僕は理系の枠で授業なども受けていたのですが、あるとき、どうしても計算間違いが、いわゆるケアレスミスが続発して、文転しようと決意しました。

 

周囲には反対されました。高校二年も終わりだったからなんですが、そこから文系科目をこなして、結果的に大学受験ではどこにも失敗せず、文系枠で大学に入学しました。

 

そうやって自分の進路を自分で決めていたなかで、

 

発症してからは、「これからは自分でいろいろ決めない方がいいのかな」とか思っていたのですが、

 

犬を飼ったのが次の見切り発車です。僕は犬を飼った当時のことをよく覚えています。

 

家族には反対されました。それでも僕はSE時代に貯めた貯金から10万円をおろして犬をペットショップで買った。犬を飼うのは正直、不安でもありました。なにしろはじめてだったので。

 

でも結果的に犬の散歩を規則正しくすることで、足腰が強くなり、まるで耐久レースのような清掃の仕事を一年やり遂げました。

 

この清掃の仕事をやり遂げたのは実はすごく僕にとって大きな自信になったのです。

 

僕は病気で苦しんでいる人の、「仕事務まるだろうか」という不安がよくわかります。

 

その時点では、発症後の実績がないわけですから。

 

僕は当時こんなふうに思っていました。こうやって犬の散歩をして体を動かす仕事に専念している間、決して”再発しない”、と。

 

というのも運動が統合失調症にいいとさまざまな本に書いてあるのを意識していたからです。今でこそ、運動と統合失調症の回復にそこまで因果関係がないというような説も理解できますが、当時はわらにもすがるおもい。

 

結果的に、再発せず、おまけに雇用保険にも入っていたので退職後失業手当も出て、お金に困ることもなく二年くらい幸せに生きていたのです。そのときは病気が今までで一番のベストな小康状態でした。

 

まあそこで余裕をえたので、次の介護で失敗するんですが。

 

でも失敗と言っても、それは家計的に失敗したまでのこと。

 

資格の学校に通いはじめたのが、その次の見切り発車で、今となっては資格をとれたことが、結果的に僕の目論見としてはうまくいったのです。

 

当時、僕はある介護施設にフルタイムで勤めていたのですが、そこに在籍しながらの

通学は非常に労力を要しました。しかも、資格代もかかる。別にそんなことしなくてもいい、むしろ経済的に難しいのだったらしない方がいいというまわりの声も聞こえました。

 

仕事は結果的に続けられなかったのですが、それでも資格は得た。勉強などそれまで長い間無縁だったので、これもまた一つの自信になったのです。

 

そして今、四回目の見切り発車です。昨日、初日の仕事に行ってきました。勤務地が前の投稿で書いたとおり、すごーく遠く、また給料も決していいわけではありません。もしかしたら、なにか違う活動をしたり、あるいはなにも活動しないという選択肢もあるにはあります。一回、介護の仕事をしているときに就労不可の診断がおりてしまったという後ろ向きな事実もあります。でも僕は昨日の初日の仕事を終えて、少し手ごたえのようなものを感じました。

 

堀江貴文の言葉です。

 

あなたはなぜ権威から反感を買うようなテレビ局買収や出馬や起業をしてきたのですかという質問に、

 

「おっちょこちょいな人を増やしたかった」

 

と答えています。

 

堀江貴文は小利口な人間はおもしろい生き方をしていないという考えの持ち主です。

 

僕はそれについてはなにも思いません。別におもしろい生き方であろうとおもしろくない生き方であろうと生きるだけでも大変なことだからです。

 

それでも、規模は違えども堀江貴文のように僕の先走った行動はいつも結果的にうまく行っている。

 

統合失調症は自分に自信が持てなくなる一面があります。僕がずっとそうでした。それでも、そうやって自分にチャレンジをもちかけて、それがいつもうまくいっていたとせめて”信じてあげること”は、大事かなと思います。

不安要素も多々ありますが。。。お金、家族との不仲、一人暮らしへの目標、あげたらきりがないのですが。

 

 

統合失調症患者は夜の方が調子がいい人が多い?

統合失調症って夜の方が調子がいい患者が多いというような統計があったりするのかな。少なくとも、僕は断然、陽が暮れてからの方がなんだか足が軽いです。

 

で、このことを担当医に話したことがあったんですね。つまり夜のこの状態を昼に持っていけないか、と。

 

もちろん夜は欝々としたりしていても、どうせたくさん寝なければいけないので、全然かまわないんですが、みたいな内容で一度、お伝えした記憶があります。

 

でもそうしたら、夜、寝る前のソラナックスという安定剤が一個減っただけで、その後もずっと夜の方が調子がいいです。

 

朝飲む薬には確かにリスペリドンというこのブログのドメイン名にもなっている統合失調症の根幹の薬が夜に比べて一粒だか少ないのはわかっているのですが、それが要因なのともあんまり思えません。

 

もしそれが要因なのだとすると担当医は朝にリスペリドンを増やすようにしてくれたでしょう。でもひょっとしたら陰性症状にも陽性症状にも効く比較的新しい薬であるエビリファイを朝飲んでいることが、リスペリドンを朝に増やさない増やせない理由なのかもしれませんが。

 

まあいずれにしろ素人判断なので、これ以上はやめますが、僕はレンドルミンという睡眠薬がハッピーになれる効果が一面としてあるんじゃないかと思っているんですね。

 

いっとき、ロヒプノールというアメリカでは麻薬指定されている睡眠薬を飲んでいたことがあったのですが、確かになんだか麻薬指定されているくらいで、とても作用が強く、いわばこういったらなんですが、快楽みたいなものがあった。

 

でもロヒプノールには依存性があるみたいなんです。僕が一番最初に飲んだとき、膝からかたっと崩れ落ちてそのまま眠った記憶があるのですが、ロヒプノールの怖いところは記憶も飛んでしまう可能性があるところなんですね。

 

で、何が言いたいかというと統合失調症患者の苦しみみたいなものはおそらく現代の薬ですべて抑えることができるはずなんです。

 

それこそロヒプノールのような頓服を、ああちょっと辛いなあと思ったら飲めばいいわけですから。でもそれが続いていくと目に見えてわかる末路は、いわゆる廃人です。

 

本人はなんら苦痛がなくても社会生活に支障をきたしている可能性があります。

 

で、ここからさらに推論をすすめると、多分、統合失調症って、たとえば衣食住が全てそろったストレスフリーの環境を前提とした無人島のようなところだと、発症しないのではないのか。そもそも都会よりも田舎の方が発症しにくいとかそういったことは言われていますよね。

 

前提に忘れてしました。異性も必要かと思います。つまり煩わしい人間関係がなくなおかつ性欲、食欲、睡眠欲がすべてなんの問題もなく済ませることができる環境でも統合失調症は発生するのだろうか、という疑問があります。

 

おそらく人道的にそんなデータをとろうにも倫理上できませんし、無人島でそんなストレスフリーすぎる生活(ほんとにそう感じられるかはわからないですが)をおくっている人間がいたとしても、それは母体数とかからいってサンプルになりえないでしょうし、なかなか調査研究といっても、できないでしょう。

 

でも一ついえるのは、そういう生活に浸りきった人間は、ある程度、訓練をもう一回しないと、文明社会では生きられない。

 

統合失調症の治療は、社会にキャッチアップする、または社会の一員として人並みか人並み以上に参加するのを目的としていて、また社会からのそういう要請もあるんですね。

 

昔は統合失調症患者は、迫害されたり、魔女狩りみたいな目にあったという記録をどこかで目にしました。それを思うと、こういう発想こそ究極的な小さい確かな幸せの発想ですが、統合失調症患者が今、生きているのは生きているだけで昔に比べたら奇跡的なことなんですね。

 

まあちょっと話が進んでしまいましたが、要は昼間であっても、夜のような元気がほしい。これはでもまだ仕事をしていない僕が、昼間はみんな活動しているものという前提でどこか後ろめたさがあるから、なんだか昼間は落ち着かないのかもしれません。

なんといっても、発症後、生活が変わったとはいえ、それよりももっと長い時間の人生で、昼間はずっと活動していたわけですからね。小中高大そして社会人三年目の発症するまで。

 

仕事をするからには発症前の順調に学生から社会人とステップを踏んできたときの調子やライフスタイルも思い出さないといけないなと考えます。

サラ金の一手はそもそもないものと考える。

明後日、初出勤なんですがその前に病院に行ってきました。担当医は、ブログもいいけれど、ブログが主とならずに仕事に専念できるといいと思います、と言っていました。

 

でも僕はそこであえて強く言わなかったのですが、ブログみたいなものはいいものを書こうとすると、仕事を手抜かりにしては書けないものなんです。つまりSNSで食べ物の写真をぽんとあげるのとは違って文章は理性的に客観的に書く必要があります。

 

なので必然的に生産性のある文章を書きたいんです、みたいな人にとっては当然、仕事をきちんとこなすということと連動しているわけなんですね。そこを老担当医はうまく含めて言わなかった。なにかしらやむをえぬ事情があって仕事ができない場合の理由だって、”理性的かつ客観的”である必要があります。そうなってくると仕事に専念するのはブロガーにとって背反するものではない。まあそう力説はしませんでしたが、少し考えればわかるように思いました。

 

で、タイトルの件。

 

僕は今、現金がなくて実は水曜日くらいまでどこからも借りられない状態なのですが、

仕方なくとりあえず職場までの交通費はクレジットカードで切符を買いました。

 

ほんとうはスイカにクレジットカードでチャージができたらいいのですが、ヴューカードというJR専属のカードじゃないとそういうことはできないというわけのわからないことになっているみたいで、一瞬、焦ったんですね。

 

あ、サラ金でとりあえず一万あれば、次のキャッシング枠があくまでなんとなるし、とか考えたんですが、よく考えたらサラ金の一万円だって、そんなもの、最終手段とかいわれることもあるかもしれないのですが、そもそもサラ金の一手はないものとして考えるというのが正解なような気がします。

 

多重債務者はサラ金でしょう。逆にサラ金じゃなかったら、ぼちぼち返していけるじゃないですか。金利が高いから、みんな返済に苦労しているわけです。

 

とするとその最初の入り口をないものとして考える。つまりサラ金なんてものは存在しないものとして考える。

 

こうすると明快になります。あらゆる物事が。僕はこういう発想こそが見えない利益の一つだと思うんですね。

 

サラ金に借りなければいけない事情も、こう考えると、そもそも何かほかの手はないかと考えるようになります。

僕の場合だったら、とりあえず水曜日にはお金なんとかなりそうなので、仕事はそれ以降にしてもらえませんでしょうか、と会社に懇願します。

 

結局、僕の場合、クレジットカードの利用可能枠を使いまわすことでなんとかなりそうなのですが、そういうわけでサラ金の文字が頭をかすめたら、それは座敷童とか河童とかネッシーみたいなものだと思って、CMも永作博美は老けないなあくらいに思って詳細を追わないのが利口かと思います。

 

かくいう自分は今日結構焦りました。でもよーく考えてみましょう。ブラックジャックから法外な命が助かる引き換えに大金払わなければいけないなんてことは人生に一度あるかないかくらいでしょう。むしろそのたとえでいくとないほうが確率高いわけでしょう。

 

お金の苦労は正しいと思います。ただお金にまつわる害、強盗みたいな犯罪とか他人とのいざこざ、あるいはお金なくて健康害すとかそういうのはすべて愚の骨頂であると誰かが言っていました。どこか違う国だったらもちろん事情は違うのですが。

 

「創作活動している気難しい父親なんて息子のおれからしてみれば迷惑千万でしかなかった」

『騎士団長殺し』をゆっくりゆっくり文章を味わうかのように読み進めているのですが、

 

どうしたらこうも印象的なフレーズを適した位置に、なんの不自然さもなく埋めこめるのだろうという文章がたくさん出てきます。

 

だから村上春樹の作品は、速読なんて容易にはできないんです。

したい人はすればいいと思うのですが、ストーリーを把握するだけとかそういった主旨には作品が向かないんですね。

 

作品の方からそういった読み方を否定してくるような感じです。

 

で、まだ第一巻の半分くらいのところまでしか読んでいないのですが、文章の消化に時間がかかっています。

 

いかに新書とか新聞とかその類が、速読向きのものが多いかがわかります。

 

僕は普段、別に自慢でもないですが本を読むスピードは速い方です。でもああここ速読すると見落とす何かがあるなあという箇所が出たら、注意して読むようにしているんですが、『騎士団長殺し』はそういう箇所のオンパレードです。

 

で、タイトルにあげたセリフを言う人物が出てくるんですが(一言一句までは一緒じゃないかもしれません)、心にひっかかっています。

 

というのも創作、文章に限らずなにかしらの作家が、なにかしらのものを生み出す行為って、そういえば無意識のうちに社会全体のコンセンサスとして尊いもの、みたいなイメージがあるのは事実だなあと。

 

これは実に不思議なことなんですが、ずっと創作とは無縁の仕事一筋で今、晩年を迎えようとしているような老人から、「創作なんてこれっぽちも価値がないぞ」みたいなふうに言われて単純に、その通りだ!と思う人は馬鹿でしょう。

 

でも、『騎士団長殺し』のような作品中にポッとそういったセリフが出てくると、ああそういえばそうだなあ、と創作も往々にして誰かに迷惑かけてやっているものだしなあ、とかいろいろ考えますよね。

 

おそらく優れた作家さんほど、ほんとうに優れた作家さんほど、”ほんとに”そう思っているんじゃないかと思う、というのが僕の推測なんですが、

 

また逆のパターンでも、創作活動で成功を収めている人が「創作こそ人間が創意工夫の中で唯一生きた証」みたいなふうに言われても、反発する人が多いのではないでしょうか。

 

で、だからこその物語のような気がしています。

 

物語の中に、そういったものがあれば、うまく言えないですが中和される価値観がある。

 

それは『騎士団長殺し』に限っていえば、村上春樹の本音なのかどうかすらわからないわけですよね。あくまでも物語のパーツとしてあるだけで、それを生む出す作家の本心とは関係ない。でも、あれこれ推測することはできる。僕がさっき推測したように。

 

ただ真実はやっぱり断定にはないとはわかっています。

 

創作マンにだって、そういう部分もあれば、そうではない部分もある。

 

そういう時期もあれば、そうではない時期もある。

 

それがわかった上で読んでいるので、タイトルにあげたセリフはますます印象的なんです。

 

村上龍が、端的に村上春樹の作品が売れる理由をこう表現しています。

 

「読者の最大公約数みたいな文章と物語であるから」

 

これは実に的を射ていると思います。

 

最大公約数的な文章と物語を書くのは難しい。実際、村上春樹以外の日本人にはそれができていないわけですから。

 

村上龍は「絶対にみんながいいと思ってほしい小説をおれは書いている」

 

と言って、

 

村上春樹は「10人いたとしたらそのうちの何人かが気に入ってくれる小説を書ければ自分はいい」みたいなことを、どこかの対談かエッセイで言っていました。

 

余談ですが。

 

村上春樹は、確かに「小説」という形でしか伝わらない仕事をしている。

小説なんてなくてもいいという発想も確かにあるけれど、小説でしか表現できないものもある。

それはきっと歴史とか文明が証明している。だって一向に小説自体がなくなるってことはないし、まったく小説を読まないっていう人もごく一部な気がします。

 

今夜も続きを読みますが、せっかくなので、村上龍などの作家が絶対にこういう比喩は使わないなあという文章を発見したのでここに記しておきます(笑)

 

それは、「読書家が本の中で気に入った文章に線を引くように」です。

 

あるいは僕がそんなことは滅多にしないだけで、年季の入った自他共に認める読書家はみんなそうしているのかもしれないのですが。でもそうじゃない読書家の価値感も村上龍なら認めるはずです。たとえば、金がなくて、でも『騎士団長殺し』は読みたくて買ったけど、すぐに読み終わったら古本屋にいい値で売りたいから汚して読みたくないんだ。みたいな奴の発想です(笑)。

 

 

精神障がい者の一人暮らしを支援、相談してくれるところに行ってきた。

市役所と提携というか委託をされている福祉団体で、なんでも障がい者に関わらず一般の人でもさまざまな相談にのってくれるところです。

 

商業ビルの一室にありました。まず簡単な個人情報を記入し、担当の方が出てきてお話をしたのですが、

 

僕は、五カ月後を目途に障がいに理解のない親がいる実家から離れて一人暮らしをしたいのですが、今まで家賃とかそういったものをこの歳まで払ったことのない僕に何かアドバイスとか、あと僕と同じような境遇の人がどうしているのかという情報を得に行ってきました。

 

で、結論。

 

グループホームやアパートや実家などでそれぞれひとりひとり事情が違うので、そのあたりはなんとも言えません、と。

 

まあそうですよね。家計収支にしても、

「月7万円あればことたりる人もいれば、35万円あっても足りない人がいる」。

 

これもそうですよね。でもこういった無料で受けられるサービスは僕みたいな人には助けになります。僕が今日行って良かったな、と思ったのは、家計簿のような支出と収入を一月あたりで記載する紙が、非常に具体的で細部にわたってまで記入する箇所があって、これは僕は恥ずかしながらなんですが、人生で初めて目にしたものです。

 

それをいただいてきました。

 

自分でエクセルとかでつくっても同じかもしれないのですが、第三者の専門機関が用意した紙の方が抜け目がないというか、今後、一人暮らしという目標を立てる上で受験時の信頼できる参考書のように指針を示してくるものとなります。

 

僕はこれまで概算人生だったんですね。なんでも概算です。大体これくらいの数字だろうとかおおよそこうなるんじゃないかみたいなおおざっぱな生き方です。

 

それはそれで病状には良かったところもあったようには思います。たとえば細かいことをねちねちくよくよ気にしなくなるとか。

 

でも数字、それも具体的な数字を意識するのは歳も歳だし、親にはもう頼れないし、何より理性的になる気がします。

 

僕は今年の頭から手帳を、これもまた人生で初めて使っているんですが、これもなんだか楽しいものです。これまで予定なんか紙に書かずに、やってきました。一つには、そんな予定が詰まったものを、”やらなければいけない”と強要されるみたいでそれが体調に悪い影響を出さないかな、と思っていたからです。

 

病気が小康状態になっていくときの秘訣は、鬱病であっても、なんであってもそうですが、”~しなければならない”を捨てることにありますからね。

 

僕はもともとそういう細かい管理は不得意ではなく、ただやっぱり発症してからはそれなりにこれまでの行き過ぎた几帳面生活を反省していたところがあった。

 

今は几帳面すぎる生活からおおざっぱすぎる生活を経て、その中間で生きているような感じがします。

 

そうなると、無茶な予定も手帳には書きませんし、そうして一つずつ予定をこなすのは別に苦ではなく、むしろ一日の張り合いがあるもの。

 

電話で予約し、まずはその家計簿に、今後の、仕事がはじまったらその給料とかも加味した数字を書き、現状をまた一月後に、その団体の担当者にお伝えしていく流れでした。

 

ノンカロリー缶コーヒーからほうじ茶に切り替える。

僕がいつも一服している近所の酒屋さんの自販機にはシュガーレス(でも人工甘味料?)のコーヒーがあって、どうせお金払うならお茶よりコーヒーの方がお得感があるみたいな発想でいたんですが、

 

最近、如実に弊害が出るようになった。まず一日二本も飲んでしまうと、それは一本100円なんですが朝、犬の散歩のときに飲んで、夜また犬の散歩のときに飲んでとやっていると確かに煙草にも合うし、おいしいことはおいしいのですが、夜、てきめんに眠れなくなる。

 

僕は投薬治療をはじめてまあ不幸中の幸いと呼べるものが一個あって、それは”薬が良く効いている方”というもので、世の中には薬が合わずに、病院を転々としたり、担当医をころころ変えたりして、なおかつ、いつも薬の種類と量が定まっていない患者さんがたくさんいるとどこかでききました。

 

僕はそういったことがないのが、本当に幸いだと思っています。微調整があったとしても、夜眠る前の、治療の根幹となる薬ではない、ソラナックスという抗不安薬が一個減ったりするぐらいで、ほとんどずっと同じ薬を飲み続けています。

 

それで、それと関係があるかはわからないのですが、コーヒーって眠れなくなる成分が入っているというじゃないですか。カフェインって良い効用もいろいろ発表されていますが、目が冴えきってしまうのも困りものです。僕はそのカフェインの代表的な効果が飲むとクリティカルに表れてしまうみたいなんですね。

 

で、そこでお茶に100円出すのはもったいないという発想を変えようと思っています。それもなんでそうできそうかというと、最近、同じ、よく行く自販機にほうじ茶のホットが売られているのを発見して、飲んでみると、まあ実にこれもまた煙草に合うんですね。

 

で、なんとなくただの緑茶のホットだと家で自分でこしらえた方が安上がりなんじゃないかとか考えるのですが、ほうじ茶は珍しいんじゃないかみたいなことを貧乏臭く思ったりしています。

 

ほうじ茶だって、買おうと思えば、パックのやつを買えるだろうことは承知ですが、家で飲むほうじ茶よりも、その一服のときのほうじ茶が格別だったりします。

 

元来、刺激物はあんまり僕の体には合わないのかもしれません。

 

よくコーヒーをがんがん飲んで、仕事している人を見知ったりしますが、僕はブラックコーヒーでさえ、時と場合を間違えるとする下痢になったりします。

 

カフェインは、糖尿病になりにくくする作用があるとか、食欲を減退させる効果があるとかさまざまありますが、よく考えたら、高校生のときまで、ビールだって、コーヒーだってそんな飲まずにみんなやってきたわけですよね。

 

大人になってから、それらが増えなければいけない原因は根本的には何一つないはずなので、煙草は統合失調症である限り、やめるのはあきらめようと思っているのですが、その他の摂取するものはソフトなやつに切り替えようと思っています。

 

なんとなく豪快に生きたい気持ちもあるので、大の男で、好きな食べ物が湯豆腐って言っているような(実際、昔、男の体格で細身が流行っているときにそう言っているガリガリの先輩がいたんですが、僕は精神が病なので体はぶっとくありたいんです)、感じの軟弱な気分になったりするんですけどね、ほうじ茶ばかり飲んでいると。