がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

統合失調症ですが、障がい者雇用でアパレル関連会社に採用されました。

まずはアルバイトですが。そして勤務地も遠いですが(交通費は出ます)。

 

それでも転職活動二社目にして異業界への入り口に立ちました。

 

障がい者枠なのですが、それも初めてです。

 

まずは時短勤務なのでゆっくり環境の変化に慣らして行きたいと思います。

 

そして電車とバスを乗り継いで片道一時間半ということなのですが、試用期間が終わったら他のもっと勤務地が近いところに異動になる可能性がある、と言われました。

 

会社側から応援していますから戦力としてしっかり勤務してくださいね、というメッセージですね。

 

『騎士団長殺し』を読み始めているのですが、村上春樹の作品を読むと(まだちょっとしか読んでいませんが)、謙虚になるとはちょっと違う、なんというか素朴に生きる大切みたいなものを僕はいつも感じます。

 

素朴って、僕の中のイメージではこんな感じなんですね。

 

「そりゃあ、世を見渡せば、立派な肩書で、派手に生きている人間がごまんといる。彼らは強い。介護?そりゃあ要するにじじばばの世話だろ、とか、障がい者雇用?単調な程度の低い安月給の仕事だろ、とかそういう言葉は、そのへんの居酒屋で僕と同年代の健常者からは腐るほど吐き出されているでしょう。僕はそれでいいと思っている。僕はそんなふうに言われていることをそんなに気にしない。それよりも真摯に本と向き合えたりする素質を保つことの方に、生きることの尊さを感じる。」

 

僕は発症してから読書を続けてきて良かったなあ、とこういうとき思うんです。かっこうをつけてあれこれ読書より行動だ!とか言って、仕事に邁進する生き方もあるでしょう。でも僕は何かを見落としたくなかった。そういう生き方を貫くのであれば、天職であった清掃の仕事をずっと続けて、チャレンジなんかしなかった。去年は確かに資格はとったけれど、介護の仕事では失敗した。失敗というか就労不可がおりて退職してしまった。借金も若干背負った。

 

それでも無駄になったとは思わない。見落とさなかったものがあるから、今また新しい業界のスタート地点に立てた。もちろん働きはじめてからの方が大変なこともたくさんあると思うんですね。

 

でも、村上春樹作品と接するたびに思う、「確かに友達は少ないかもしれない。親に自分に対する理解がないかもしれない。自立もしていない。障がいがある。でも、自分がちゃんと大地に二本の脚で踏み立って”生きている”感覚を噛みしめているところは大事にしたい」

 

というような感覚はこれから生きる上で一助となるように思うのです。

 

でもまあテクニカルなことを言うと、33にもなると自分の本心にはないような言葉を並べただけの面接は通らないんじゃないかと振り返って思いました。僕はつくったわけでもなく本心にある思いが、ようやく社会のニーズとマッチしたとそう捉えています。

 

 

賢人説。

「信念に反していても、とりあえず相手の言った通りにやってみて得られる利益を考慮する」

 

いわゆる先生と呼ばれる作家や教授や専門家の人たちは、既に立場というものがありますから、言わなければいけないことがあります。それらが彼らの仕事です。公に権威をもって発言し、耳を傾ける人の一助としなければ商売にならない一面はあるでしょう。

 

しかし、呼称の仕方は微妙なところなのですが、一般に先生と呼ばれる、哲学を広く知識として知って教える人だけではなく、哲学を実践する人間は、そうばかりとは限りません。

 

この、哲学を実践する人間は、一般に哲学者とは違うかもしれません。それこそ駅前で見かけるティッシュ配りの人かもしれませんし、路上のホームレスだったり、あるいは実際に先生と呼ばれる職業に就いている権威ある人の中にも当然いるでしょう。

 

これらの人たちの中で、何が僕が定義するところによる哲学を実践する人かそうではない人かの線引きになるかというと、それは大多数の価値感のみによっては絶対に行動をしない人と定義できると思います。

 

そしてこうなってくると最近僕がよく考えることなのですが、その行動をとった理由の説明が、非常に難しくなるわけなのです。

 

要は言語化できないものになる可能性が高くなる。もしそれが言語化できて、第三者になるほどね、と納得してもらえるのであれば、その哲学者の行動はすでに多くの人に知れ渡っている発想になっている可能性が高い。

 

伝えられる情報のコンテンツは、それが多くの人が知らなければ知らないほど価値が高まりますから、世の人のためと貢献度を高くしたいのであれば、いったん人に説明ができない、うまく伝わらない、言葉にすることが難しい行動に出なければいけない性格が備わっていると言えるでしょう。

 

それを実践できる真の哲学者は非常に苦労を伴うものと想像できます。そしてこういう人の苦労は、表には出てこない。そもそもそれが出るかもわからない前提があるなか、結論が出るまでは、誰かに共感してもらう喜びを考慮していないので孤独極まりないでしょう。

 

多くの人たちは表立った苦労話を苦労だと思います。睡眠時間一日数時間であとの時間は働いて、死んだ親の借金を返さなければいけなかったとかその手の苦労話はたいへん人によく理解してもらいやすいです。

 

僕はこのよく多くの人に理解してもらいやすい苦労は、不幸中の幸いのような苦労だと思っています。借金を返している最中に何の邪魔も入りません。多くの人はその苦労を理解し、はたからみて応援します。

 

しかし、そうではない、目に見えてはわからない苦労もこの世の中には存在します。

哲学を実践する人間の範疇に、想像の中で考えられる賢者がいます。相手の主張を飲み込んで(それを悟られないようにまたそうできるようにする何かしらの苦労が考えられます)、実際そう行動し、それによって得られる利益を考えます。

 

自分が持っている価値をいったん”無”にできる人は強いんです。よく映画やドラマなどで、いさかいで憤る場面があります。自分のプライドなどを鑑みて、腹に立ったりして、それを言葉に出したりします。でも本当は前の投稿にも書いた通り、口論によってのみ生まれる利益などたとえあったとしても、所詮、口でのことなので、どうでもいいものなのです。

 

 口論にはプライドが関係すると書きましたが、想像の中の賢者は、そういった人情を持ちません。どの人とも折り合いをつけて、相手に合わせた価値観の中で向上を得るのです。全てをその後えられる利益のみに着目している点でこういう人物は合理性の権化ですが、現実にはそんな人間はいないでしょう。

 

でも想像上あるいは創造上の人物として設定することはできるし、またいるかもしれない可能性を否定できる証明もないわけなんですね。そういった空想には何か感じ入るものがあります。

中村天風哲学の限界。

僕は以下の質問を天風会という中村天風さんの哲学を実践している団体に投げているところです。

 

”私は統合失調症を患っています。『運命を拓く』第五章大いなる悟りに以下の文があります。

「病になったならば、病をむしろ忘れるくらいな気持ちになりなさい。

病は忘れることによって治る。」

私は入院したときに「病識」を持ちましょうと担当医に言われました。病識がないのが統合失調症の患者の特徴で薬を飲み続ける必要があるからです。統合失調症に関しては上記の言葉は矛盾していないか。詳しい父に訊くと、病識を持ちつつ病を忘れるくらいが大事、とそう言われます。しかしそれは非常に難しいように思います。修行をすると本当にそんなことができるようになるのでしょうか。私は病は忘れることによってむしろ統合失調症は薬を飲み忘れたりして悪化するんじゃないかと思っていて、中村天風さんの上記言葉に疑問を感じます。そして本当に有効なのであれば、なぜ統合失調症患者の再発事例はあとをたたないのでしょう。病は忘れることによって治る、という言葉は統合失調症患者に対して無責任じゃないですか?あるいは中村天風さんは医者なのに統合失調症を知らなかった?

納得できるご回答をよろしくお願いいたします。”

「回答に時間がかかると存じます。お待ちください。」

というような返信だけ今のところ来ました。

僕はもし本当に納得できる答えが返ってくるのであれば、修練してみようかと思っているんですが、おそらくそうはならないと悟っています。

統合失調症のことは置いておいても、中村天風さんの哲学には限界があります。中村天風さんの哲学を知っている人ならわかると思われるんですが、あの教えは一元論的なんですね。たとえば「積極的な言葉だけを使いなさい」。

僕は中村天風さんの哲学は素晴らしいと本当に思っているんですが、現実的にその素晴らしい哲学が世界を覆っていない”事実”の方に着目します。

一元論では多様性というものが生まれません。

僕がなぜ村上春樹村上龍に助けられたと思っているかというと、あの人たちは、”どんな人間も否定しない”というところがまず根底にあるからなのです。

僕の言葉でいうと、僕は主義主張というものが実はないのですが、逆説的に言うと、主義主張がないという主義主張がある、と説明できるんですね。

で、大事な観点なんですが、人間社会はそういう成分でできています。あるいは人間がそういう二元性を持った生き物なのです。そういう立場に立っている側からすると、もちろん中村天風さんの主張もこちらはそれはそれで一つの主張だよね、と”多様性として”認めるんですが、中村天風さんの方はこっちの立場は消極的な発想だ、と言って”否定する”んです。ここに溝があります。

でも理想は中村天風さんの方にあるんです。あの教えが全ての世界を覆うと、積極的な人間だらけの素晴らしい社会ができあがります。でも果たしてそれは、実現可能でしょうか。これまでの人間が築いてきた歴史でどの時代もそうなったことがありません。現代においてもそうです。

中村天風さんのいいところはすべて取り入れる前提はあります。僕も病気になった中村天風さんと同じように向上心を持って生きていますし、積極的にいられるところはそうします。でも僕が八年間で築き上げた統合失調症の小康状態を保つ秘訣は、村上春樹が唱えるような小さくても確かな幸せを大事にすることなのです。このブログでも書きましたが、僕に関していえば、ひとまず面接に行ったら面接が無事、終わったことを感謝する。ステップアップはあげたらたくさんありますが、統合失調症患者はその感謝をすっ飛ばして先へ先へと急ぐのは、賢明とは言えません。中村天風さんの支持者は消極的な発想だと捉えるかもしれません。僕の父親がそうです。中村天風さんは言います。いわく誰でも私のように生きればひとかどの成功者になれる、と。

中村天風さんは、成功なんてしなくても生きているだけでもう成功じゃないか、という立場もありつつ、ああいう教えですから、矛盾があるといえば矛盾があるし、そして僕が何より重視するのは、中村天風さんの哲学よりも村上春樹小確幸の方が、全世界中に共感を得ている事実です。

これはなぜなのか。その答えは繰り返しますが多様性への理解です。

中村天風さんの哲学は主に経営者などに好まれると聞きます。あるいはスポーツ選手。勝負の世界にいる人にとっては多様性なんかよりも積極性の方が大事でしょう。

多様性の押し付けもそれはそれで一つの一元論だという見方も哲学上ではあるかもしれません。でもこれもまた繰り返しになりますが、”どっちがより多くの僕のような障がい者のような人間にまで広まり受け入れられるか”の現実を僕は重視します。

平たく言うと、中村天風より村上春樹の方が読まれているわけなんですね。

行動で人を判断した方がいい理由。

僕は口で行われる議論って極論すれば無意味だと思っています。文字が書けない人とかは別ですが、一番みていていやになるのは国会の議論です。あれはしゃべっている人のパフォーマンスなんですね、そういう類の。

 

口言葉を重視する人は、おそらく伝わるスピードを考えていると思うんですが、別にそれが文書でも世界はまわります。便宜上、買い物のときとか困るわけですよね、何も話せなかったら。たとえばそういう目的では口言葉は大事です。

 

でも国会で話すことって、「この消しゴムいくらですか?」みたいな値段が貼られていない文房具店での質問とは違いますよね。

 

もっとさまざまなデータや理論や思想を駆使しておのおのの立場を重視した主張をしているわけです。

 

その発言がどういったものなのかを詳しく吟味するには書き言葉の方が正確です。ただ書き言葉だと伝わるスピードが遅かったりする。また口でも言った方が、より多くの人に伝わる。それはその通りでしょう。でもそうだからといって口言葉ばかりを重視して、相手をその場で論破したり正当性を示すことに快感ばかりを覚えるような人間は馬鹿だと思っています。

 

というのはあくまでも述べたとおり、そんなものはパフォーマンスでしかなく、みている方があの人かっこいいなあとかかっこ悪いなあとかそのように感じるだけで、僕は人間はそんなに単純ではないという見方をします。政治に関していえば、マニフェストがきちんと実行されるかどうかだけを、国民は監視していればいいわけです。

 

このことに気づいたのは僕の入院時の担当医の今でも僕の芯に突き刺さっているある言葉です。

 

それはとてもシンプルなものでした。

 

「私(医者)は治療方針を患者の発言ではなく、患者の”行動”で決めます。」

 

僕は入院時、病院に迷惑をかけているこんな言葉があるかどうかはわからないですが、”不良患者”だったんですね。僕はそのとき26歳で入院時にある既婚者の女性の躁鬱病の人と食事の席とかで仲良く頻繁に話しているところを、他の患者から、みていて不快、というクレームがあったのです。僕が担当医に、「治療のために来ているわけですから、きちんと食事をとり、適切に行動しましょう」とそう言われたことに対し、「はいそうします」とだけ適当に答えて、実際はそうしていなかったわけです。

 

で、入院時3週間目くらいに、担当医に病棟を移りましょうと言われて、違う病棟に移されてしまったのです。

 

僕は反省し、その担当医に言われた言葉は八年後の今でもずっと、物事をみるときの判断基準になっています。

 

人間、どれだけでも嘘がつけます。どれだけでも適当な言葉がいえます。どんな偉大な人物でも、それは同じです。たとえば映画という芸術の中には、ふんだんにそのような”パフォーマンス”を重視する人物が出てきたりします。そしてそれはそれでその言語の創造性に価値があるようになっている。

 

そもそも人間が嘘がつけない動物だったら、この世の中は今とはまったく違った輪郭で形どられている世界でしょう。人間が嘘がつける世界だから、みようによっては楽しいしみようによっては悲しいのです。

 

だけど行動ははっきりと行動です。記憶があやふやだったり、水掛け論みたいな言葉があるように口言葉はどこまでもそれらに勝てません。

 

人間社会は一見、口が強い人間が出世して行くようにみえるかもしれませんが、有言実行を高いレベルでこなしている人以外、それらには価値がなく、むしろ僕が興味をひかれるのは、口では悪党的な非人道的な暴力的な言葉ばかり発していてもとっている行動がヒューマニズムに彩られている人間です。

 

この手の人間は現実社会にはそうそういません。だから映画などで作り手側のモチーフにされたりします。

統合失調症、たまには「怒る」感情も大事かも。

僕の父親は決して統合失調症に理解があるとは言えないのですが、まあ実際、今、僕は障がい者年金だけで暮らしていて、父親の表現を借りると病気に甘えている、とそう言われます。

 

他にも僕が思うところがあって犬を飼っているのを犬嫌いの父は、部屋がくせえな、とか言います。

 

僕はこれらはある程度仕方がないと思っていて、統合失調症である以上、理解のない人からの批判だったり辛辣な言葉だったりは、まあ確かにそう見えるよなあと変に冷静に考えてしまうところもあります。

 

でも。僕は最近、体調がいいので、好きなことで成功する確率と就業不可がおりてしまう確率は一緒、みたいな記事も書きましたが、ちょっと体験をまた文章にできそうな仕事の面接があったので、チャレンジで行ってきたんですね。

 

そこの面接では、以下で書いた記事も少し意識しながら、自分が思っていることをちゃんと言えたと思って、結果がまだでそれがどうあれ、嬉しかったんですね。

 

risrpd.hatenadiary.com

 

統合失調症患者は意見がまとまらない症状は往々にあります。僕もその一人です。でもその面接では、

 

「私は人の役に立つことをして自分自身が成長していくのが好きです。自分の体験を通して普遍的に問える内容を文章にするのが今は趣味でありやりがいです。障がい者であってもチャレンジができるところを示したい思いがあります。それでも業務上でその障がい者がチャレンジがどうかは関係ありません。だから体調をいつも考慮しています。今はそうできます。」

 

と面接用につくったわけでもなくちゃんと普段の本心を言えたんですね。これだけでも僕の中で進歩なのです。そういうまあ健常者からしてみたらほんとうに低レベルの次元かもしれないですが、僕は自分が思っていることをそれなりに言葉にできて面接官がそれを聞いてくれて頷いたところをみてああコミュニケーションがとれた、とそう思ってうれしかったわけです。

 

だけどそれなのに家に帰ってきたら、もっとバンバン面接受けろだとか、日銭を稼ぐために外に出て活動しろだとか、ペースが遅すぎるとか言われるわけです。

 

で、ブログなんかにしてみてもですね、「一日何万ビューを稼げる人はそれはそれでいいかもしれないけど、そうじゃないんだったら、ひとまず自活しろ」とそういう類の正論を言うんですね。

 

僕はそのときかなり感情的になってしまって、一晩、寝苦しかったんです。で、起きたら雨が降っていて、それがなんというか僕が退院したばかりでこの先不安で不安でしょうがなかった八年前の迎えに来た母親とみた病院外の風景とまったく一緒で。僕はその風景をすごく良く覚えていて、灰色の視界に刺すような水滴がパラパラ落ちている。

 

そのときやばい!と思いました。また不安な人生が始まるかもしれない、と。

 

でも前日、怒ってしまってそのことに自己嫌悪して泣いたこともあり、起きてすぐ寄ってきた犬の散歩に冷静に行って冷静に帰ってきたら、ああ昨日、怒ったり泣いたりして良かったなとそう思えたんです。感情の起伏がなくなるのもまた症状の一つですから、またまったく怒らない人が切れると怖いっていいますけど、そういうガス抜きみたいなのは大事なんだなあと。

 

僕は感情論とかその類が嫌いです。でも感情論が嫌いな人が、いたしかたなく憤るのと涙を流すのは、一つの浄化作用なのかもしれません。僕は体調が悪くなりそうなので、そういう場面に出くわさないように注意深く生きていますが、一年に一回くらいそうやって浄化して、反省する時間をつくって、少し慎ましくなるサイクルは今の僕には必要だったみたいです。

 

村上春樹とカフカ。

昨日のテレビ番組で刑務所の中がうつされていました。

 

まあよくあるやつです。

 

でも僕は刑務所の生活にはちょっと興味があるんですね。

 

なんでかなあと思うんですが、あの規則正しい生活を強制力なしにできたらいいなあと怠け者の僕はどこかで願望があるんだと、そう思っています。

 

村上春樹の名言のひとつに

 

「会社で仕事をするよりももっともっとやりたいことがたくさんあった」

 

とあるんですが、

 

この中にはマラソンもあるし執筆もあるんですね、それを誰にやれと言われるわけでもなく成し遂げているところに非凡さがあります。

 

唐突ですが、僕はあの悲劇性が強かったり不幸性が強かったりする文学を嫌い、ふつうのそのへんに存在する世の不思議さを表現しているものが多い作品群がもし独身のままあの歳を迎えて書かれたものだとしたらファンや読者の今ある村上春樹および村上春樹が生み出した作品群に対する印象がどう違うか、あるいは違わないのかというテーマは非常に興味深いのです。

 

というのは村上春樹はご存知カフカに影響を受けているのは自明です。おそらくカフカ人間性にもなんかしら感じ取っている部分があるのも推測されます。

 

公にはレイモンドカーヴァーみたいな日本人にはなじみがうすく個性色の強いアメリカの短編作家などへの賛同を表明したりしていますが、

 

作風の原点は、近代日本文学への不満や不調和とカフカです。

 

数多くいる世界の文豪のなかでも、その名前を冠した作品を出したのは村上春樹の作品の中でカフカだけです。

 

村上春樹は思いつきや勢いやひらめきで小説を書くタイプではないのでそのあたりを考えると村上春樹の中でカフカは特別な気がします。

 

で、そのカフカは、異様にユーモアラスな言葉を恋人への手紙に残していたりします。

 

「将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。将来にむかってつまずくこと、これはできます。いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。」


そして結局、独身のまま病死したんですね。それでも村上春樹が嫌悪した悲劇性や不幸性がカフカの文学にはなく、むしろなんか、僕なりに文学的に表現すると、

 

”それまで恋人とお花畑で仲良くいちゃいちゃしていたのに、急に夜が来て誰かにドアを閉められ監獄のようなふとんだけ敷かれた六畳一間に気づいたら一人で突っ伏していた”

 

ような作品のイメージなんですね。ひとことで不条理文学と言ってしまえばそれまでなんですが。

 

で、何が言いたいかというとここで文学論をぶつつもりはないので、センスとか直感なんですが、もし村上春樹が独身で既婚歴もなかったら書いた作品の量と質から言って、あのカフカを完全に超越した作家になった、とそう思いませんか?(笑)

 

ノーベル賞とかもはや関係なくなるくらい楽しい空想なのですが、村上春樹は常識人ですからね。

 

きっと下読みをたくされることもある村上春樹の奥さん、村上春樹と作品について大きな力になっているのでしょう。

統合失調症と煙草。

煙草撲滅論ってあります。

 

僕も煙草ってなくていいと思っています。

 

でも統合失調症患者にとっては一日のうちのささやかな楽しみ。

 

僕が入院していたとき、一日10本だけ吸う同病の人に出会いました。

 

中年のおばさんで、息子を交通事故でなくしたと言っていました。

 

もう体調は小康状態でいいけれど、お金と住む場所がないから、生活保護のお金を入院している間に貯めていると、そう言っていました。

 

煙草が生きがいと言いながら食後に吸う姿はほんとうに至福そうでした。お酒は病院内だから飲めません。そもそも薬との相性もあります。

 

でも煙草は病状に関係ない。昨今の煙草増税、煙草撲滅論の人たちはそういう人たちからも煙草を奪うのでしょうかとたまに考えます。

 

またもう一人、同じ喫煙所で同病の中年のおばさんと話をしたことがあります。手が震えていました。パーキンソン病を併発してると言っていました。

 

その人は煙草を、すごーく短くなった煙草なのに一端、火をとめて煙草入れの中にしまいました。もったいないからあとでもう一回火をつけて吸うと言っていました。

 

僕はストレスをためるのが怖いです。吸えるときはたくさん吸って、ひとになにか言われたこともこの一服で紛らわせようと、そこまで吸いたくなくても吸うときがあります。

 

またこの理由が一番大きいのですが、”余計なことを大切な人の前で話したくない”。

 

家族でもそうです。もちろん外で接する他人もそうです。お医者さんでもそうです。友達でもそうです。なにか不適切な無駄ななんのお互いにとって利益にならないようなことを言ってしまいたくない。

 

僕は煙草のおかげで、歳相応にみられそうな迂闊な発言を避けています。煙草を吸ってあれこれ言動を起こす前に、一呼吸置くのです。

 

煙草がなくてもそうできる人は立派だと思います。でも、ならそうすればいいという意見の人たちは僕が以下に書いた統合失調症患者にある脳内の仕組みについてはどう思うでしょうか。


risrpd.hatenadiary.com

 

僕は統合失調症になんかなりたくなかった。大多数の人と同じような意見をもってとことん楽をしたかった。煙草なんか害そのものだ!酒の方がいいと多くの賛同を得る生き方で、ちゃらちゃら生きて、統合失調症?そんな病気たいしたことないたいしたことない、と言って豪快に生きたかった。

 

でも僕は統合失調症です。もうあの入院していたときの二人のおばさんには通院でも会わなくなりましたが、煙草撲滅論に接するたびに僕はあの二人を思い出し、これからも忘れることはないでしょう。