がんばれないひと。

統合失調症歴10年。35歳男の雑記です。地元のフリーペーパーの記者をやっています。

35歳。

正確にはまだ35歳ではないのですが、あと数日。何事も前倒しで生きているので、これも早目に記しておきます。

 

35歳っていうのは僕は素晴らしい歳だと思っている。もう狭義の若年層ではないのだ。以下、もう取らないであろう僕なりの行動を記しておく。

 

ひとつ目にファッションアイテムの衝動買い。これは、なんで僕が服や靴や鞄をこれまでアホみたいに買っていたかというと、買い物が官能的である、という体験を無意識のうちにしてみたかったのだろうと思っています。でももう卒業ですね。無駄に服に使っていたお金を僕は煙草代にします。なんせニコチンが統合失調症患者には有効であることが科学的に証明されているみたいなので。僕は煙草を発症してからの10年間で吸わなかった日が1日たりともありません。同時に薬を欠かした日も1日たりともありません。煙草と薬で再発が10年間ただの一度もないのです。

 

2つ目に風俗です。これは不思議なことといえば不思議なのですが僕はファッションアイテムをアホみたいに買っていたのと並行して髪型もコロコロ変えていたのです。でも坊主頭にしてからはもう坊主で固定になり、眼鏡をかける日もありますが基本的にコンタクトレンズを使用すると性欲が嘘のように半減しました。不思議ですね。アイデンティティが形成されにくい統合失調症患者ですが今僕はプロの記者として仕事をしていることがその固定をより強固なものにしたのだと思います。風俗依存症が完全に治りました。

 

3つ目に犬です。僕は犬を5年間かいました。僕は35歳の誕生日に犬を信頼の置ける友人に譲渡します。これが一番悩んだところです。犬を飼い続ける生活が夢をもたらしてくれたとずっと思っていたからです。ただ、今はこんな解釈をしています。僕の俗物性を苦労して犬を飼うことで減らしていく努力をして、文章を磨くという目論見は間違っていなかったのですが、もし、犬がこんな生活保護で借り上げた狭いアパートで過ごすよりも快適な場所で飼われ、またその飼ってくれる友人もちょうど犬が飼いたかったところだったとすると僕には犬を手放さない理由はない、と思ったのですね。要するに他にまぬがれる道を把握した上でのその苦労って真の苦労じゃないのですよ。まあでも情はあるので僕は犬にこう言っておいてあります。

 

「もし僕がもっとbigになってもっと他人に伝わる形で文筆で成功したら、また会いに行くよ」と。

 

例え譲渡だとしても、僕が仮になんらかの形でもっと社会に影響を与えられるデビューをしたらその友人も、飼い主がどっちつかずになって困る事情があっても、会わせてくれるのではないかと思います。

 

これが僕の近況で、付け加えるとしたら借金が50万円あっていまだに生活保護だというところです。

 

経済的に一発を狙う生き方をしています。生活保護で隠れ蓑にして、今の仕事で実績を積んで、いつか相応しい形の物書きとして認められ、犬に会いに行くことができたら幸せですね。

 

35歳はやっぱり素晴らしい節目なのです。

 

 

 

芥川賞選評にバラツキがある理由。

これはまあ当たり前といえば当たり前なのです。

 

最近知ったのですが、石原慎太郎芥川賞選考委員を務めていた頃に、町田康芥川賞を受賞しました。

 

そのとき石原慎太郎町田康を絶賛したのですね。

 

石原慎太郎と親和性があると思っていた村上龍は、反対に酷評をしたのです。

 

僕は一読者としては町田康は新しいとは思いました。面白いとも思いました。

 

しかし酷評する人もいる。

 

表現の世界に正解がないからなんですね。

 

これは結構、人の人生観を揺るがすテーマであります。

 

昔学生時代に塾に通っていた僕は、講師の人に、「風邪が絶対に治る万能薬を作ったらノーベル賞」と教えられました。

 

これは、正解がある世界なんですよ。

 

ただ、このような、正解のある世界は同時に不正解もある世界なのです。

 

それは人間をときとして排他的にさせます。

 

例えばこんな話を考えてみるとわかりやすいかもしれません。

 

妻と別居中の経済能力のないある夫が弁護士になろうとして一念発起し自己流の勉強法で司法試験を目指しているとします。

 

司法試験に合格するためには、どうしたって正しい努力をしなければ合格しません。

 

闇雲に自宅で勉強していても、ほとんどの人は受からないでしょう。

 

そしてその夫は、間違った努力と知らずに間違った努力をしてひたすら時間を食いつぶします。

 

そして案の定、試験に落ちるのです。

しかし、その夫は勉強法は間違っていたけれども、一人で自宅で勉強をしている孤独の中に、何か法律の知識とは関係のない、その生活の中での特有な印象を抱くという体験をします。

 

孤独の中に、妻の良いところや、夫婦生活を営んでいたときには気づかなかったことを、たくさん思いつくのです。

 

そしてそれだけにとどまらずに毎日、誰とも、話さない中で、外の世界にある例えば木々などの自然であったり、

 

花々に、感動をする、という体験をします。

 

そして、そういった孤独の時間のうちに、その夫は、こういった感慨を抱くのです。

 

「妻の良いところはたくさん見つかった。妻と仲直りできそうだ。しかし同時にこの独りの生活もまた気に入った。最悪、妻と仲直りできなくて離婚になってもいい。どういうふうに生きても、人間は感動を覚えながら生きられることを知ったから」

 

この夫のように多様性を理解できる道っていうのは必ずあるものなのです。

 

そしてその多様性を認めて世に知らすのが芥川賞などの小説の世界です。

 

選評にバラツキがあるのは、この世の中に多様性がある何よりの証であり、

 

当たり前のことなのです。

 

正解がある世界か不正解でもそれはそれで正解がある人生観を持つか。

 

これは、真の意味での人間の進路の選択だと思います。

 

 

ミニマリストの僕に寝袋が合わなかった理由。

AKBのプロデューサーで知られる秋元康が言っていたのですが、

 

「寝る時は作業の最中にパタッと寝たい。」

 

つまり電気もつけっぱなしで、作業中の物が雑然としている中で気づいたら寝ているという状態が理想だと言っていました。

 

人間には時間が限られています。

 

僕はそこまで時間を最大限に有効に使う積極性みたいなものはないのですが、

 

少し理解できることがあります。

 

というのは統合失調症の僕は寝る前に必ず薬を飲みます。

 

飲むのですが、いつも飲み忘れないようにだいぶ早めの時間に飲むのです。

 

すると薬の、おそらくリスペリドンという統合失調症の治療の根幹を成す薬の効果なのですが、食欲が増進したり、急に活動的になったりします。

 

いつかの投稿で、統合失調症患者は夜の方が調子がいい人が多い?みたいな記事を書いたら反響があったので、患者さんはそう実感している人も多いのかもしれません。一応、レンドルミンという弱い睡眠導入剤も一緒に飲んでいるのですが、僕の場合、リスペリドンの作用の方が強く出ます。

 

で、つまり活動的になっている最中に寝袋を敷いてその中に潜り込んでという段取りができないのです。

 

眠気が来たらいつもすぐ寝られるようにはしているので、何か活動をしているときに、例えば本を読んだり、ブログを書いたり、カレンダーに予定を書きこんだり、部屋の模様替えをしたり(僕は結構、頻繁に部屋の模様替えをします)している最中に、秋元康みたいにすっと眠気が来ます。

 

その瞬間に寝たいので寝袋は段取りが面倒でうまく使えないのです。

 

いったん寝袋の中にいて、パッと起きて活動して、また寝袋の中に入ってというスタイルが合わないのです。僕は普通の人みたいに眠気を感じて寝床に入ってそのままそこから離れずに寝て朝を迎えるということがほぼありません。

 

早めに寝床に入って、起きて活動して、寝床に入って、また活動して、みたいなのが夜のパターンです。

 

だから寝袋は、ミニマリストの僕にはすごく魅力的なのですが、

 

これまで3回くらいいろんな形の物を買ったりしましたが、その都度、上に述べたライフスタイルから合わないと感じたのでもう寝袋を買うことはないでしょう。

 

寝袋ってなんか樽の中で過ごしたと言われる哲学者のディオゲネスみたいで憧れがあるんですけどね。

 

で、僕は毛布×毛布にしています。

 

厚めの毛布を下に敷いて、上に軽めの毛布をかけています。

 

夏は床で寝ていたのですが、硬い寝床が大丈夫な僕でも、硬すぎました。

 

厚めの毛布を敷くくらいがちょうどいい感じです。

三島の失敗とは何かを考える。

これは我ながら画期的な、

 

私見だと思うのですが、

 

三島由紀夫の自決でよく言われているのは、

 

時代錯誤というものと、あとこれは僕は最近知ったのですが、あの最後の演説で、自衛隊の決起を促したが、

 

その場にいたオーディエンスが、

 

普段から肉体的鍛錬を積んでいる、ザ自衛隊の人ではなく、

 

会計とか経理部門の自衛隊で、

 

要するに武士ではなかった、

 

という話があります。

 

まあ、そのミスはハナから三島の本質を突いたものではないことは

 

すぐにわかりますよね。

 

時代錯誤の方は、一見、物分かりのいい人間が考案した指摘のように思えますが、

 

あれも本質ではない。

 

本質は、三島が、

 

"積極的に美を認識しようとした失敗"

 

だと思うんです。

 

つまりこういうことです。

 

美っていうのはリアクションで感じるものか、間接的に感じるものかの

どっちかなんですよ、理論上。

 

リアクションというのは、

 

つまり、何か予定にそぐわないことが起きて、あたふた頭が快適を味わっていないときに、感じるものなのです。

 

これが僕がよく例えに出す、

 

3日水を飲んでなかったあとの

一滴の水が美味しい、

 

というような種類の快楽です。

 

間接的というのは、文学ひいては

 

芸術ですね。

 

三島が構築した文学もそうですが、

 

文学ってモジなんですよ。

 

字なんです。

 

食べられないし、

 

ただそこに書いてある字とはセックスもできません。

 

読んで美を想像する。

 

これは間接的な美です。

 

書いたら、それは直接的な美なのでは?という問いもおかしいでしょう。

 

なぜなら書いているときに美を直接的に感じていたら、モジが書けないでしょう。

 

つまり、どっちに転んでも、

 

美は積極的には感じとれないんです。

 

それが美の性質なのです。

 

三島は自身の業の深さから、

 

美を積極的に、つまり、美を追いかけていったところに失敗があったのです。

 

そして直接的にも美を感じとろうとした。

 

三島はこういう言葉を残しています。

 

「明日死ぬとわかっている人間は妙に幸福になる」

 

特殊な環境においてはあるいはそれは真実なのでしょう。

 

特攻隊の、今まさに特攻するという人間の心理状態にそういうのはあるかもしれません。

 

ただ、やっぱり死ぬんですよ。

 

死ぬ瞬間に感じられる美、つまり快楽は、人間は感じ取れるという主張は、

 

科学的にオカルトです。

 

美を、神様という概念に置き換えてもいいかもしれませんが、それはやはり人間の踏み込む領域ではない(積極的、直接的に美を感じとるものではない)ということを

 

三島の死から学ぶのが、

 

一番の正解なのではないでしょうか。

 

そしてもし、三島に失敗があったとすると、

 

そこです。おそらくそこだけですが、

 

肝心です。

ひろゆきの主張と『コンビニ人間』。

僕はあの2ちゃんねる創始者であるひろゆきの主張を、「結局は三流のコンテンツしか生まれない」と退けたことがあります。

 

今でもそう思っているのですが、その大きな理由は、ひろゆきが考える頭の良い人というのが、"得をする人"だからです。僕はあんまりそういうのを賢いとは思わないんですよ。

 

というのはこのブログでも散々書いている、三島由紀夫の思想であったり、ドストエフスキーなどの実存思想のもとにおいては、"得をする人"というのは"チンケ"だからです。それはまあ僕の一感想だとしても、客観的に見て"得をする人"はノーベル賞をとれるでしょうか。

 

ひろゆきに是非投げかけたい質問です。

 

ひろゆきの主張には、それでもなるほどなと思わせるものがあります。

 

その最も大きなものが、

 

時給千円のアルバイトを提供する側、働く側と双方とも、社会にとって悪である、という主張です。

 

ひろゆきは長々と動画で説明しますが、

 

簡単に言うとこういうことです。

 

例えば牛丼って自分で作ろうと思えば作れますよね。この世の中の全員が牛丼を自炊すれば、牛丼の会社はなくなるんです。当然、そこで時給千円で働く人もいなくなります。ひろゆきは、そういう社会の方が健全だと、そう言うのです。

 

時給千円で働いて身につくスキルが大したことないから、です。

 

ひろゆきは暗に、不要な会社がいっぱいあるとそう言います。

 

ない方が、例えば牛丼だったらみんな自炊して、何も問題ない、とそういうことです。

 

ただ僕はこの点に関しても、突っ込みどころがありますね。

 

ひろゆき芥川賞を受賞した『コンビニ人間』という小説を知っているでしょうか。あの小説は、作者がコンビニという、僕が上で述べたような時給千円アルバイトに従事しているさなかに書かれたものであります。

 

何が言いたいかというと、

 

時給千円アルバイトでも、何か他の目的、つまり稼ぐだとか社会にとって不要だとかそういう単純な発想のもとだけで、

 

人間は行動しているわけではなく、

 

"そこに現実的にあるものを利用して、

 

なにか自己実現の手段にする、あるいは対象にする"という類の人間は少ないかもしれないですが、いるのです。

 

人間っていうのは複雑な生き物なのです。

 

僕はやはり多様性という言葉がキーワードかな、と思います。

 

多様性を認めるのが真の目的であり、

 

社会にとって不要であるかどうかは、

 

人間が決められるものではないのです。

 

その点、ひろゆきは大分浅はかです。

 

僕は、ひろゆきは頭が良い、と考える人間は全員、頭が悪いと思っています。

 

僕が上で述べたようなことを、全く理解できないからです。

 

逆に僕のような立場の人間は、どこがどう世間に頭がいいと言われているのかを、

 

完璧に把握することができます。

 

 

全ては犯罪を犯さないため。

僕のこれは持論なんですが、

 

人間って犯罪、つまり他人に迷惑を法的にかけなければ、

 

何しててもいいと思うんですよ。

 

大局でみるとですね、結局どんな人間も誰かの役に立っているんです。

 

タイトルに犯罪を犯さないため、

 

と書いたのはあくまでも自分自身の不利益を重視して、なんです。

 

犯罪ってコスパが悪いんです。

 

捕まったら自由がありませんし、

 

世間から白い目で見られる。

 

うつわの大きい人は犯罪をおかして、

 

それ以上に大きなメリットを社会に

あてられる場合もありますが、

 

それは目指したり計画したりしてのものではなく、結果的に、あるいはいたしかたなくそうなってしまった、という感覚が正しいのです。

 

で、僕は、一つ、統合失調症患者であることのメリットかもしれないと思うものがあります。

 

それは病気になったことによる謙虚さかなと思います。

 

一生の病を患って、

 

例えば、何かで社会的に大成功して、

 

有頂天になる、ということがあるでしょうか。

 

藤圭子統合失調症で飛び降り自殺をしていますが、

 

いつ自分がそのような心理状態になるかわからないんですよ。確率が低いとはいえ、健常者よりかは確率が高いのは間違いありません。

 

僕は小説をたまに書きますが、

 

実力はさておき、意図して世に絶対に出したいと思うタイミングは、

 

いつも今ではない、と思っています。

 

実力がないのがその通りなのですが、

 

実力がなくてよかったと思うことも

 

しばしば1日の中であったりするものなのです。

 

だって、

 

金入る、名誉入る、自己実現できた!の先に、つまり、なんかの賞金をもらった10秒後に、

 

飛び降り自殺しないとも言えないわけです。

 

だから僕はそういうのはこういう風に考えています。

 

「経済的にも社会的にも自己実現的にも成功を収めるような何かは、実際にそれが手に入ったときにも、全く動じず、

 

これまでの生活と何も変わらないのを確信し、つまりもらって当たり前というくらいのラッキー感がない時に、もしかしたら達成できるかもしれない。そんな感じだから、小説を書いて賞をとりたいと願うのは、心のどこかでそれが向上心をなくさないための建前なのであって、

 

本音は、ああ凡人で良かった、平穏な波のない謙虚な生活が明日もやってくると感じることが、等身大の自分なのである。」

 

田中慎弥芥川賞を受賞したときの言葉が、「もらって当然」です。

 

内実はわかりませんが、そういう自己実現の達成の仕方が、狂わない人生という認識です。

 

 

良い変化でも悪い変化でも変化自体に意味がある。

僕が最近になって、なんで統合失調症なんて発症してしまったんだろうなぁと内省するときに必ず思い当たる節があったりします。

 

それはSEをやっていたときの自分の行動パターンです。あるいは性格です。

 

SEという仕事は正確さが求められます。正しく素早く実務を完遂しなければならない。

 

おそらくそういうカチッとした仕事が、ライフスタイルにも影響を及ぼしたのだと思います。

 

僕は、当時、毎回決まった時間に起きて、毎回決まった服を着て、毎回同じ食べ物を食べて、毎回決まった本数だけタバコを吸う、みたいな生活をしていました。

 

一番病的だったのは髪型に対するこだわりです。僕はキッカリ一月に一度、必ず同じ床屋で毎回同じ理容師に毎回同じオーダーをしていました。

 

これは本当に病的だった。

 

髪を切ってもらって少しでも、ほんの1ミリでもいつもと違うとストレスを抱えていたのです。

 

それで発症したときはまず両親に対する被害妄想がありました。

 

こんなにストレスを受けているのは、

 

お父さんお母さんあなたたちのせいだ、と。

 

入院を機に僕は反省というか3年間かけて性格を直そうとばかり考えていました。

 

もともと僕は仕事をする前、つまり学生時代は典型的なO型の大雑把な性格だったのです。それがSEの3年間で病的になってしまった。

 

だから僕はまず、パソコンから距離を置きました。

 

そして小説や新書や病気に関する本を読み漁りました。

 

僕が療養生活の中で一番、ショックというか、根底から叩きのめされたのは、

渡辺淳一の『鈍感力』という本です。

 

僕はそのようなカチッとした社会人生活を送っていたので、

 

少しの変化にも対応できず、つまり上司から何か言われたときも、傷ついたままでいるような、脆い人間だったのです。

 

『鈍感力』には、鈍いくらいにあれこれ自分のまわりを通り過ぎる事柄を静観するような人間が最終的にうまくいくというようなことが書いてあります。

 

僕は3年間かけて、大雑把に生きる、細かいことは気にしない、見た目の、例えば体重や髪型などの変化も気にしない、という訓練を意図的にやっていました。

 

大雑把な予算で適当に商品を選ぶことや、毎回違う髪型を違う美容院でオーダーする、など。勇気がいりましたが、

 

三年目には大体もう、こだわりというこだわりがことごとくなくなりました。

 

ただそれが行き過ぎて、女も誰でもいい、仕事も何でもいい、食べるものも何でもいい、と、何もかも主体性なく生きていたら、借金を抱え、能動的に仕事ができない、というようなこともでてきてしまったのです。

 

そこでまた試行錯誤をして、ちょっとだけ発症した当時の良かった部分を取り入れてみたりと、また変化しています。

 

僕が述べた上のような変化の経過は、極めて個人的な性格やライフスタイルのものですが、

 

どう転がろうと、変化すること自体に意味があるととらえています。

 

地球自体も万物も動いているのです。

 

変化することが良いことという風潮に科学的な根拠があるとしたらこれです。

 

動物も何もかも進化と退化を繰り返している。

 

自分も否応なくその一員なのだから、

 

変化は避けられない。それだったら、

 

結果どうあれ、前向きに変化しようと

意識するのは、理にかなっているのです。