がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

男と女の違い。

男は戦争の象徴で女は平和の象徴と言いますが、これには様々な文献がありましょうが、ただ単純に男の性器をみればすぐわかることです。

 

槍、棒、パイプ、なんでもいいんですが要は性器が突き刺す道具の形をしている。

 

実際セックスのときも刺しているわけですよね、言葉の表現をすれば。

 

そしてそれ以外にも、男には不思議なメカニズムがあってそれは性欲がいったん解消されたら、すぐには発情しないことです。

 

つまり女より夜に理性的になっている時間が長いわけです。

 

これは昔狩りをしていたときのメカニズムがひきずられているとか

 

またたくさんの参考文献があると思うのですが、

 

要は持続するものがなにもないんです。

 

勃起だってずっと続くわけではない。

 

世界の認識の仕方が違うわけなんですね、男と女で。

 

たまに男だからとか女だからとかそういう議論に興味がないと言って

 

女が男が旧来担ってきた仕事に就いたりすると新聞なんかで書かれるわけ

 

なんですが(女性警察官の活躍の記事など)これは前提として

 

男が優位であるという認識のもとで書かれているのは自明です。

 

もちろん優位とか劣っているとかはほんらい男女関係ありません。

 

とくにいわゆる学問的なことだったりに関しては女でも理路整然としている人はたくさんいるでしょう。

 

僕がここで述べたかったのはひとつには性差による暴力の有無です。

 

男はもしこの世に法律がなかったらまず暴力を働きます。

 

女はもしこの世に法律がなかったとしてもせいぜい金を盗むくらいでしょう。

 

暴力は金より強いわけです。それが原始社会であれば。

 

幸いなことに法律国家なので暴力は限りなく少なくおさえられ金がものを言う社会になっていますが、暴力の説明である筋肉は男の方が多く、

 

それは、今の法治国家が文化として平和を維持してきた中ではよりいっそう際立つようにできているのです。

 

ローマ時代に筋骨隆々が珍しかったとは思えません。

 

そういうセックスアピールも、すべて比較においてなされます。

 

現代は暴力がいらない社会ですから、

 

男が女に近くなり、男女雇用均等法みたいなものを出すまでもなく女が男に近づいている。

 

男が持っている暴力性などなくてもいい社会ができている。

 

でもそれだと人間、退屈なんですね。

 

格闘技でもなんでもいいんですが人間、何かしたいわけなんです。

 

で、そのなかのもののうちもっとも何か行動したいという変な衝動が

 

凝結されるのは戦争です。

 

上に書いたことは、論理の飛躍だという人は、人間への洞察が鈍い。

 

戦争は、よって、必ず起こるという認識に立つのが賢い視点であり、

 

またそれによって男側も満足したりしているわけです。

 

そういうからくりを知ると、

 

戦争放棄!と唱えている人も戦争賛成!と唱えている人も

 

どっちもやっぱりただの人間でただの男なのです。

 

この男のメカニズムを知り尽くした男がそれでは幸せかというと

 

そうはならないところに不思議さがあります。

 

 真理を知った男はみな最後が悲劇的でしょう。ニーチェひとり挙げるだけでもじゅうぶんでしょう。

 

それでこの文章の結論は男は幸せになりたかったら少し上でも述べましたが、

 

女性的になることです。好きになった女の考えに翻弄されるくらいのなよさが

あれば二人でうまくいきていけます。幸せになれます。

 

僕もそんなふうになりたいと思うときがあるのですが、

 

問題はいざそうやって幸せをつかんだときに、その瞬間にも、ニーチェのような、あるいは僕が述べたような男がつぎつぎとあらわれるという点です。

 

彼らは文字通り強い。なんで強いかというと人工的に計算的に女性化もされていないし、

 

要は原始的に男としての本能で生きているからです。文明社会ですから本能に知能も当然くわわります。そういう人間のほうがサバイバルできるわけなんですね。

 

日本の衰退は、女がそういった原始的本能的ではない、本質や真理を知らずに生きている男を求めるようになったからだと僕は思っています。

 

話を戻すと、僕は男女の差についての議論をするときに、その動物としての性格を無視している場合は根本的なところで議論が成り立たないと思っています。

 

男は永遠がわからない。女は未来永劫続く幸せを信じている。

 

どっちも男側と女側それぞれの立場に立てばそれは真実ではありますが、

 

特に女性化がすすんでいる男たちの前で女のそれはますます強いものではありますが、

 

それは繰り返しますが、女性化がすすんでいる男が多い日本だけの話です。

 

 

デジャブの恐怖。

昨日、いつものように働いていたら、それも一生懸命働いていたら、急に視界にデジャブ感が襲ってきました。

 

あれこの風景をみて、「あのときも同じ風景をみてあれこの風景は確かに前にも」と思った瞬間があって、

 

僕はさっとほかの作業に集中して頭を切り替えたのですが、あのままデジャブ感の光景を食い入るように見入ってしまったらどうなるんだろうとか後になって考えてしまいます。

 

あれは僕の中で幽体離脱と同じ構造なんですよね。

 

幽体離脱というのは金縛りがおこったあとやってきます。

 

金縛りはなんとか自分でほどけることもありますが、幽体離脱ユングフロイトをもちだすまでもなく行動の源が性欲なので(専門書にはリビドーとか書いてあります)、

なかなか強い呪縛感なのです。

 

ほら性欲って一回考え出したらとまらなくなるときあるじゃないですか。

 

それは大人であってもいっしょのような気がします。痴漢ニュースはあとを絶ちませんし、すべての人間社会の諸問題は性欲が直接的にではないけれど、影響を及ぼしているのではないか、とか考えてしまいます。

 

で、話が戻るんですが、

 

幽体離脱もそうなのですが、あれは意識があるなかでの出来事なのでほんとうに怖いんです。自然と振りほどきたくなるんです。

 

意識がすっと動いてたとえばベランダにまで行ったとします。

 

そうするとその瞬間、飛び降りるか飛び降りないかの判断が自分にまかせられているのです。

 

そこで開放感にまかせてえいやっとベランダからたとえ肉体はともなっていなくてもやったとしたら、どうなるんでしょうか。

 

実はそれを実験した人はこの世の中にまだ一人もいないのです。

 

立花隆が著書で『臨死体験』という本を発表しています。

 

これは三途の川をみてきたという瀕死の人間の古今東西とわずあらわれる共同幻想がある実態を、身をもってリサーチしたもので、立花隆自身、具体的にどうやって環境を構築したかは僕はしっかり覚えていないのですが、

 

とにかく瀕死の状態と同じような脳の構造をつくって実験してみたという本です。

 

でも結論からいうと立花隆はそういった魂みたいなものが存在しないという証明もできなかったわけです。なので結局、科学にもわからない、とにかく脳の構造はまだまだぜんぜんわからないと述べるにすぎない結論だった。

 

僕はオカルトを信じているわけではないのですが、デジャブのさなかにその光景を凝視する、あるいは幽体離脱中に怖い行動を思い切ってしてみる、というところに別世界があるのではと考えているところがあります。

 

でもこれは別に変な話じゃなくて人間そういうなんだかよく自分でも説明できないけれど感じたりやってしまったり信じたりするところは必要な気がします。社会は理性で成り立っているので、寝る瞬間とかデジャブ感のときにはそれがうまい具合に外れるぐらいで人間バランスがとれているのでしょう。

 

前のどこかで書いた内田樹がUFOを信じているなんていうのもそういういわば人間のバッファ(余白や余分なゆとり、余裕)を生きていくうえでもたせているというひとつの合理なのです。

 

人間は一人残らず、みんながみんなどこかおかしなところがあります。

何かを捨てるのは快感だ。

ちょうどガラケーにしたこともあり、gmailのアカウントをこの機に削除しました。

 

僕は定期的に何かをそうやって捨てるのが快感です。

 

特に長年使っていたものを捨てる瞬間は、本当に必要ないと判断できたとき、脳内で変な物質が出ているのでしょう。

 

でもなんでそういう行為に快感が伴うかというと、「これからライフスタイルが変わるかもしれない」という展望があるからです。

 

ライフスタイルの変化について考えるのは僕は楽しいと思うタイプです。

 

これにはいろいろな理由があるのですが、僕は昔は変化を好まない人間でした。

 

ルーティンワークの方が楽だしとかこのブログの最初の方にも書きましたがずっと同じ服着ているのはかっこいいしとかとにかく一つのものに愛着を湧かせるというのが苦手になってきました。

 

で、先に言いたいことを全部書くと、そうやって無駄なものをとっぱらって最後に残るものがほんとうに必要かつ愛着が湧いたものなのかなと。

 

かえがきかないというか。

 

だから離婚って、僕は離婚する人のみんながみんなそうだとは思わないんですが、欲望がつっぱしているような気がします。

 

よく感情的な人間は醜い、そのためのコントロール術みたいな本がありますが、離婚は感情を表に出さなくとも、行動で出している醜いといえば醜い行為です。

 

なんかしらの自己主張を感じますからね。

 

幸せ求めすぎているみたいな。

 

まあそれはおいておいても、僕にとって最後に残るのが犬だったら、なんとなく人生勝ったという気がしないでもありません。

 

人生というのは自分で価値をみつけたりすてたりの繰り返しで判断されるわけですから、僕のなかでそこの価値は結構大きいのでそのとき財産失おうとなにしてようととにかく犬と無事、この世を生還できたときに、だれから言われるでもない、自分で自分に勝ったぞ、と言ってやりたいわけなんです。

 

思えば、芥川賞をとった『コンビニ人間』の評論で、こんな趣旨の文章がありました。

 

「人には誰にたくすわけでもない自分で試みた勝負に、勝った負けたという戦いを挑んで、実はその戦いがはたからみてどんなに無意味だったりむなしかったりするものであっても、人にはそういう側面がある。つまり目標を立ててそれに打ち勝つことに生きている価値がある。そういった勝負の構図を自分でつくりだして戦うさなかに真の創造性があって、このコンビニ人間はプロットづくりからはじめておわりまで物語をとちゅうこけることなく書き上げ、まさにその勝負に見事に勝ったわけだ」

 

そうなんです。なんでもいいんです、人間なんて。

 

目標があると張り合いできるじゃないですか。

 

そして目標に向かっていった結果も、自分で結果の価値を判断する。

 

そういうことが客観的にみてずれているとか共感性がまったくないとか思われずに達成できたら、それだけでもう大したものだと思っています。

仕事が嫌いな理由。

人間自体が矛盾した生き物なのでその人間がつくる社会は当然矛盾に満ち溢れたものになります。

 

それがもっとも顕著かつ身近に表されているのは会社でしょう。

 

僕はSNSでブログに書くまでの分量にするのは大変だけど面白かったこと感じたことをぱっと投稿するのが好きなのですが、

 

仕事に関する、それも現場での仕事環境や状況について書くのは一切やめるという方針を立てています。

 

その他の投稿も基本的には非公開です。

 

それが社会人としての常識という理由なわけではなく、

 

とにかく仕事の現場って想像していた以上に、変、なんですね。

 

何が変かというと、ほとんど仕事もせずに読書ばかりしていた僕からすると

 

ついていけないくらいの、非論理さなのです。

 

そうです、本を読む効用は論理的に物事を考えられるようになる、というものがありますが、

 

それにあまりに親しんでいると、なんだコイツは、みたいな驚くような社会人といっぱい接することになります。

 

でも冒頭で述べたようにそれらはいわば当たり前なのです。

 

街や職場が現実で本は基本的にはあれは理想です。

 

で、理想についてなのですが、理想みたいなものは芸術に丸投げしていいんじゃないかと僕はたまに思うことがあるのです。

 

映画には見上げたような人物がたくさん出てきます。

 

あるいは小説にはあるべき精神が説かれているものも多いです。

 

 

でもそれを実行するのって、あの巨大な理不尽な人間の山がつくった仕事にはなんの役にも立ちません。

 

これは断言できます。本に書いてあることは、それもたとえば小説なんかに書いてある世界は、あれはでたらめというか、要は仕事でくさくさした感情を持っている大多数の人間に教育しているのではなく、純粋に作品として面白いと思ってほしい構図があるのです。

 

そのための現実の理不尽さだと思っても差し支えない。

 

もし現実が小説に書かれているとおりだとしたらその小説は駄作です。

 

小説の役割は、ふつうの人がふつうに生活しているだけではみえてこないものを描く使命があったります。

 

で、その面白さや描かれたものを堪能するためには現実の理不尽さには耐える必要がある。

 

誰だって楽園に行ってみたいと思うでしょう。食べ物や衣服や異性がたくさんいて、ずっとそこにいてもいいよと言われたら、その場所は楽園です。

 

でも楽園にはひょっとしたら小説を読んで感動するひきがねとなる要素がまるでない可能性もあります。

 

その場合は楽園自体が一つの作品なのです。

 

そこで生活する人間はいわばプレイヤーで、はたからみた場合にのみ、ある一定の評価になりますが、本人たちはこういったらなんですが、飼育されている豚と一緒なんですね。

 

哲学者のアランは、不幸がなければ幸福はない、と述べていますが、

 

僕の見解はちょっと違うんです。

 

不幸なんてない方が幸せに決まっているんです。

 

そこは揺るがない。

 

ただ人間は不幸のなかにある幸せをみつけることができるし、またそっちの方が強く幸福を感じるような生き物なのです。

 

だから芸術みたいなのが成り立つわけです。

 

で、そういうわけだから、天職っていうのはほんとはあれはまやかしの言葉なんですね。

 

僕はこう考えるんです。

 

つらいつらいと毎日思う仕事であればあるほど、仕事が終わったあとに幸福を感じる度合いが強いわけですから、つらい仕事の方がある意味、天職だと

 

こういうとふつうの人はなにを言っているんだ、となるでしょう。

 

実際、ほんとにつらくてつらくてしょうがない場合は、転職します。

 

これは正しい判断で、そのままいると、何かがくるってくる可能性がある。

 

ある程度、くるっているのは会社ではあるけれど、ほんとうにどうしょうもなくくるっているというところは、これは残念ながら自分で判断しなければならないので難しいのですが。

 

話を戻すと、要は小説のような理想の世界に浸ってその理想をうけついで発言にそれらを含ませる生き方は、それはそれでひとつの優雅なのかもしれませんが、

 

住んでいる場所が楽園ではなく現実である街なので、

 

面白かったり、すごいなと思うような出来事はないのが当たり前だったりする。

 

だから、僕は誰かが誰かを、だらしがないとか常識がないとかかっこわるいとかそういった理由で人を嫌いになるのは、一面においてバカだと思っています。

 

仕事が遂行されるためには、そりゃあモラルにかけたことくらいするでしょう。

 

電車でくだらない話を大声でしたり、タバコのポイ捨てをしたり、そういうのは人間のあるワンシーンなんですね。

 

ストレスがないときでは同じ人間でも、その捨てたタバコの吸いがらを拾いに行くような人かもしれません。

 

このあたりの洞察ができていない映画なんかが日本にはたくさんあるのですが、(例として有川浩原作の『阪急電車』など)

 

みてて、バカだなよりも先に、そういう触れ込みではないヒューマニズムをどちらかというとうたっている作品なのに、商業狙いかと思ってしまいます。

 

だって、みんなそれぞれリア充みたいな言葉のとおり、自分の楽園をつくろうと計画する人ばかりですからね。その手の大多数の人には、当然、うけますが、

 

上に長々とあげたからくりを知っている人は、なんだかしらけるというのも一つの真実です。

 

僕は仕事を円滑にすすめるためには、ある程度、俗物にならなければいけないと思っています。だから仕事行く前の電車のなかでは本を読みません。そこにある車内広告だったり乗ってくる人だったりそれらにだけ注意を向けています。

 

 

 

映画『海の上のピアニスト』にみる、隣の芝生は青くみえる論。

僕はずっとタイトルにあげた映画の世界観が好きだったんです。

 

豪華客船のなかで社交場のピアニストとして育つ主人公。

 

彼はピアノしかしらない。というか船の中しかしらない。

 

だから人生の最後にはじめて恋心を知っても、恋よりも自分の”属する”船のなかですごすことを決意する。

 

この映画の、その一瞬あらわれる女性、主人公が恋心をはじめてもった女性の描かれ方は正直すごく上手です。

 

表情とか目の感じとか、この女性もはかない気持ちを抱いているんだなあというのが伝わってきます。

 

でも僕は最近この映画に惹かれなくなったんです。

 

なんでかなと思うのですが人間の環境に注目して最近日々生きているので、もしこの主人公が鬱屈とした閉塞感のある国と場所に生まれたら、そんなふうには決して思わないものというのに気づくからです。

 

当然のものとして初恋の成就のうれしさに喜びを置くのが人間でそうではない場合にこういった映画の世界が成り立つのはふつうじゃないからなのは当たり前のことなのですが、育った環境は大きく人に影響を及ぼします。

 

僕が大学生だったころ、教授に、「でも人は環境によって影響される部分は大きいわけですから僕がそんなに勉強熱心ではないのも、ゆとりなので仕方がない面もあるのではないかと」

 

みたいなちゃらちゃらした発言をしたら「環境、環境などというけれど人間それだけではありませんよ」と。

 

でもこういう考え方はどちらかというと厳しい考え方だと思っていて、

 

それだと真実がみえてこない面はある、と僕は当時教授になんと言われようとうすうす思っていたものです。

 

というのは今でいうところのISのテロリストっているじゃないですか。

 

あの戦闘員たちを、「どんなに自分の居場所の環境が悪くても、人道的に正しい道を歩む立派な人間もいる」と正論を言ったところでは、もう分析はおしまいなんです。

 

それよりも「いったい詳細として彼らはどういう生活を送っていてどういう不満があってその不満を解消すべき方法はほんとうに社会的にないのだろうか」と

 

まず同情の部分から分析をしていかないと現実に役立つものにはならない。

 

そういったものを考えていますと、

 

上にあげた映画の世界観の成功も、あるいはその映画をけなす批評もどっちも存在として論が立たないということはありえなくて、

 

どっちかの世界にいたら他方の価値観はすぐれてみえるし、またその逆はその逆なんです。

 

で、さらに論をすすめると大多数の人の価値観でない方に美徳が置かれる傾向にあるのも人間の性なのですが、

 

その美徳を感じるためには大多数の価値観を知らなければならない。

 

そのためには俗を知らなければならない。

 

上にあげた映画をみて、「きどりやがって」みたいに思う人を、たとえばその映画が好きな人は、けなせないはずなのです。

 

そういう一般的な人間らしい価値観によってしか映画の成功も、ひいては芸術の成功もない。

 

僕はそういうのを知ると、主義主張というのは全部ポジショントークでしかありえないのではないかと考えてしまいます。

 

人間はおかれた環境が違えば、たとえ同じ人間であっても、俗に染まったり、あるいは映画の主人公みたいに華麗になったりする。

 

多くの人は(昔の僕も含めて)、感動的な映画だった、という感想しか持たず、上述したようなことまでは考えたりしないものなのですが、考え抜くとそういった話になります。

 

一日一日を大切にしすぎる日本。

前回の記事の続きみたいになりますが、サービス業のサービス内容が過多だということは競争がより一層はげしくなって、つまるところ一日一日の重みが強くなって、要は世の中が変化するスピードが尋常じゃなくなるということです。

 

僕は『ブロークバックマウンテン』という映画のなかで好きなシーンがあるんですが、

妻と離婚した主人公が、ほとんど物もないトレーラーハウスに住んでいて、牧畜業を営んでいるなか、娘がその田舎まで訪ねてくるシーンがあるんです。

 

で、娘は結婚報告を父親にしにきたわけなんですが、そこで主人公はこう言うんです。

 

「〇〇はどうした?」

 

すると娘はこう言います。

 

「〇〇とつきあっていたのはもう二年も前の話よ。今は□□という新しい恋人がいてその人と結婚するから式には来てね」

 

このやりとりでアン・リー監督が表現したかったのは、二年後に好きな人が変わるという期間をどうとらえるかと、どうして一途の愛を選ばないんだ、その新しい恋人はほんとうにお前を愛しているのかというまあひとつの純愛ラブストーリーなのでそういうセリフを挟むんですが、

 

僕はちょっと違う観点からもみていて、都市部あるいはここでは日本の過剰な働きぶりはそれこそ結婚生活にも少なからず昔と比べてなんかしらの影響を及ぼしているんじゃないかと。

 

実はものすごく便利になっている日本という国がある反面、別に日本人よりなにか知能が劣っているとかそういうのでは決してない他の国やまた日本の中でも遠い田舎の国の人たちからみたら、なんでそんなに日を追うごとに変化が必要なの?なんでそんなに働くの?それに伴う社会問題もたくさんあるのにそこを無視して前に進むの?

 

と疑問がたくさんあるんじゃないかと思うんですね。

 

僕がもうついていけなくなったのはサッカーの世界です。

 

だれだれがどこどこの監督をつとめてこういう選手がいてこういうフォーメーションでというのが一か月後にはさらっと変わっていることがある。

 

スポーツがサポーターの労働状態を前提としないはずはないので、目まぐるしくそれらが変化をするのは、結局、みんななんかしら現状が不満なわけなのです。

 

田舎暮らしでとくにそういう生活に不満を覚えていない人は、三か月前も一週間前もきょうも大体似たような生活を送っているんじゃないでしょうか。

 

そして都心部の人よりも一日一日にそんなにプレッシャーをかけていないわけですから健康にもいいわけなんですよね。

 

で、核心をついたことを書くと、要は別にそういうスローライフはみんながみんな送れるわけじゃなくて、誰かがなんかハードワークするやつが出てくるんですね。それに負けじとみんながんばる。

 

そして、彼らは他のたとえば田舎暮らしをしたことがない人だったりするとそれが当たり前だと思っている。

 

でも、都心部で得られる幸福と田舎暮らしで得られる幸福は変わらないというか、僕が主張したいのは”それらがどっちも同じくらいの幸福だという真理を感じられる人間でない人が多すぎるがゆえに過剰なものが生まれる”

 

というもので、今はそのどっちもの良さを同時に体得するデュアルライフが流行っているのは、まあ上に書いたようなことがあるからなのでしょうね。

サービス内容が過多な日本。

今、接客販売の仕事についているのですが日本はどうしてこうもサービス業の仕事内容が「自分が消費者だったらそこまでしてもらわなくてもいいのに…」といったサービスが多いのだろうかと考えてしまいます。

 

日本という国は一見優秀な国のように世界と比較すれば思えますが気づいている人は気づいていると思うのです。

 

「もっと他にみんなやらなければいけない仕事ってあるんじゃない?」と。

 

新聞を読んでみますと介護人材が足りないとかいじめでしょっちゅう誰かが死んでいるとか貧富の差が拡大しているとかまあいろいろありますよね。

 

一般市民が、それこそ働く世代の人間にモラルというか日本という国の問題の優先課題としてそういった認識があれば今ある日本のサービス業の大半はなくなるでしょう。

 

なぜならどう考えてもいじめで自殺するこどもの方が”かわいそう”だからです。

 

ただ一方では大量に自殺者がいて、一方では過剰なサービスを開発する人間がいて、そうやってうまく社会がまわっているという見方もできなくはない。

 

分業社会として国の優先課題の仕事に取り組んでいる人たちはやる人が少ないがゆえにハードな仕事を担います。その疲れやストレスを過剰なサービスをうけて、

 

また元気に仕事に行く。これはサイクルとしては別におかしくない。

 

 

ただそういう人の命に関わる仕事についている人たちが全員、民間の過剰なサービスを欲するかといえばそうではないし、またもっとも変なのは過剰なサービスを提供する側の人間が一歩組織の外を出たときに他の自分がかかわっていないサービスの内容に不満を持ったりすることです。

 

この理屈は、自分はこれだけのことを提供しているからまわりもそうでなければいけないという不思議な理屈なのです。

 

そういう人たちはそれが日本に特有の性質であることに気づいていない人も多い。

 

僕は接客販売をしていますが、どこか休みの日になんかの店に入って、店員に話しかけられたらうざいと思ったりするところがあります。

 

要は僕は別にサービス内容が、人間の根本的欲求の最低限のところの基準をクリアしていればそれ以上のことはどうでもいいと考えている人間なのです。

 

堀江貴文は洋服を買ったときに畳んでふくろに入れてもらうサービスにたいして不必要であると言っていたことがあります。

 

とかく自分にとっては、そんな服ごときで丁寧にくるまわれても、うれしくないし、むしろビニール袋にほいっと入れてもらえればそっちの方が時間がかからなくていい、と。

 

さて、これはどっちが少数派なのでしょう。

 

僕の憶測だと、丁寧なサービスをうけたいと思っている人は先ほどものべた日本特有の高度なサービス業社会に洗脳されているのです。

 

もしなにかしらの事情でたとえば中国の奥地で生活しなければならないとなったときに、隣の街に数軒だけある店で日本なみの過剰なサービスを受けたいと思うことはないのではないかと思います。

 

その分のエネルギーや人材やお金を、人の命にかかわる事業の方へ全部まわすのが賢い視点なのですが、そういった視点をもつ、プラトンが唱えたような万能の人を国のトップに置くというのはなかなか非現実的なので、僕もやむをえず接客販売の仕事をしていますが、

 

そのあたりを意識している人間は、一見少数かもしれないですが、どっちが普遍的かと申しますと僕が述べたような考え方の方にあるのは間違いないでしょう。