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がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

33歳。

僕は家に居づらくなった。

 

父親の頭が完全に、柔軟ではなくなった、理を求めなくなった、感情的でそれでいて高圧的になった。

 

今僕は33歳で、

 

きっと10年前の僕からしてみたら、僕が今父親に対してそう思うのと同じように、体力も感性も劣化したと、そう思うだろう。

 

卒業した小学校と中学校の横を通り過ぎた。

 

雨が降っていた。グラウンドは真っ暗で、校舎は見上げる余裕がなかった。

 

僕は33歳が僕にとってこんなに寂しいものだとは思いもしなかったよ。

 

あの頃の友達はみんな結婚して家庭を築いている。

 

いっしょに悪ふざけした友達はたくさんいたのに今はもう会わない。

 

学校に制服ではなくスカジャンで来た不良たち。

 

僕に告白してくれた女の子。

 

卒業する最後までうまがあわなかった教師。

 

彼らはみんな一過性の人たちだったのだ。

 

絶対にそこにとどまっているはずではない人たちだった。

 

それを回顧したところでなにになるだろう。

 

だけど僕は確かにあのとき、大人になったら何でも自由で楽しいことばかりだと思っていた。

 

本当にそう思っていたんだよ。時間が経ったね、ずいぶん経ったね。

 

僕に告白してくれた女の子。僕が人生ではじめてつきあった女の子。

 

学校を卒業した日に電話したね。長い電話だったのか短い電話だったのか、今はもう覚えていない。

 

今でもちゃんとそのときの電話ボックスあったよ。

 

今でも確かに同じ場所にぽつんと立っていたよ。

 

僕はそれをみるたびに何度も何度も寂しさがこみあげてくるだろう。

 

一過性の人たちは一度過ぎ去ったら鳥のようにもとの場所には戻ってこない。

 

あの電話ボックス、いつまであそこにあるのかな。

 

もし僕がこの土地を離れて、年老いてから戻ってきたら、そうしたら、もうそのときこそなくなっていて、僕は今こうしてその電話ボックスをみて寂しいと思ったことももう思い出さなくなるんだね。

 

そうなんだね、今の僕も一過性の存在なんだね。

 

でも33歳を僕は覚えおくようにする。

 

これからどんな人生があったとしても、33歳は覚えておくようにする。

 

ちょうど15歳のころを覚えていたように覚えておくようにする。

 

だってそうしないと。

 

時間はたちが悪いから、ほんとうになにもかも忘れてしまうね。

 

でもね。

 

それでいいのかもね。

 

いつかどこかで会えるよね。

 

たとえもし覚えていなくても、僕の記憶が正確で、そうしたら久しぶりの会話がひと段落したときにこっそりトイレに行くふりをして、

 

僕は煙草を吸いながら、涙をこぼすかもしれない。

この世に永続、長続きするものは何一つないと思った方がいい。

僕はずぼらな人間ですからね、もともと。

 

ネットやパソコンが好きなのもそれが楽だからです。

 

楽なんですよ、特に僕がこれは一番楽だな、と思うのはコンテンツの消化です。

 

ネットがなかったとしたら、よいコンテンツを探しにどこか行かなければならない。

 

物理的に外に出なければならない。

 

別に食べて寝るだけの生活に満足を覚えるようであれば別ですが人間は幸か不幸かそれだけでは満足しない生き物なのです。

 

で、僕がこれが実はもっとも何もかもをショートカットした楽なコンテンツだなと思うのはアダルト動画です。

 

よくゲームの発展が、そのままITデバイスの進化に貢献したといわれますが、僕はそれより動画の方が果たした役割は大きいような気がしています。

 

成人男性でネットが自由に使える環境でゲームはしたことはないけれどアダルト動画をみたことがないという人はいないんじゃないでしょうか。

 

僕はアダルト動画の普及が昨今の晩婚化に与えている影響は少なからずあると考えている人ですが、まあそれはどうでもいいのです。

 

晩婚化だろうが、少子化だろうが、日本の人口が8000万人になろうが僕にとってはどうでもいいことです。

 

そんなことよりもっと深刻なことがたくさんありますからね。

 

で、特にこれは深刻だなと思うのは、そういう上にあげた怠惰な姿勢からくるなにかの劣化です。僕は毎日、実はそのたぐいの恐怖と戦っているところもあります。

 

そうなんです、ほんとうにずぼらなんですよ。

 

食べる時間とか食べるものも適当だし、タバコの節約という概念はないし、貯金もあんまり考えていない。それで毎朝、びくびくしながら生きているといっても過言ではありません。心配性というかもともと考えすぎる性質なんですね。

 

ひどいときなんか、あ、やばい、タバコの吸い殻を水しかないまま放置してもしかしたら家が燃えるかもという心配が朝にあったり、とにかくいつでもこのままではやばいやばいと気だけは焦っている状態です。

 

これはなんでかな、と思うのですが、ひとつには毎日服薬していることがあげられるかと思うのです。僕は8年間薬を飲まなかった日がないのです。それで、今もし薬が消滅したら僕はまた状態が悪くなるかもしれない、という危機感がつねに頭のどこかにあって、

 

そういうところからの発想で、ストレスはうまく発散したいという気持ちと平行して、

 

ちょっと気を抜くと何もできない人間になるという感覚がある。

 

実際、三年間何も、それこそ寝て食べて本読んでくらいしかできない時期がありましたからね。

 

僕が本をというか何かを読みたいと渇望するのも、ふつうの人ならまだしも僕みたいな人間が堕落したらほんとうにやばいんじゃないかと思っているからです。

 

でもそれでいいんじゃないか。

 

人間いつ死ぬかわかりませんからね。

 

自分の価値観とはそぐわない一日にいやおうなく行かなくてはならなくて、教養というか教育的な文章も突っぱねたいけれどもそれを消化して、それでじっさいに嫌気がさしてそれらに悪態をついて向上を何日かさぼっても、また別の日にまったく同じコンテンツに接して、教育されて、おおそのとおりださぼっていた自分がだらしない、と思うのを繰り返せばそれでいいんじゃないかと。

 

それを繰り返しているうちに人生は終わります。それは良いとか悪いとかじゃなく。

 

 

アドラーの教えはロマンを排している。

昔、アドラーに学ぶよくいきるために働くこと、みたいなタイトルの本を読んだのですが、このシリーズ、売れているみたいで、違うバージョンの同じ作者の本だったと思うのですが、そのなかの一文「構えさえできていれば人間はどんな相手ともパートナーになれる」

 

という箇所が印象に残っています。

 

というか僕は大学生ぐらいのときから、アドラーなんて知らなかったけれど、うすうす人間ってそうなんじゃないかと思っていたものです。

 

ほら、戦時中なんて相手を選べないじゃないですか。それでもうまくいっていたというか今より離婚率低かったですよね。

 

もちろん時代の風潮としてたとえば離婚なんて恥ずかしくてできなかったとかはあるかもしれないですが、それ以上にただたんにふつうにうまくいっている家庭がたとえ見合いでもあったのじゃないか。

 

そういうことを考えていると、理想って今、なんの分野でもありますが、理想は理想のままでこない方がいいという説を唱えることができる。

 

というのも理想は理想だから、理想が現実にやってきたときにそれはすでに理想じゃないんですよ。

 

現実に変わるのです。そしていったん理想が現実になるとまた別の理想ができる。

 

それだったらはじめから現実のままでつきとおしていくのも面倒をはぶくという点ではそれそうおうに効率的なんですね。

 

でも人間の寿命が長くなってようは無駄なことを考える時間が増えた。あるいは平和になってからそういう時間が増えたと唱えられなくもない。

 

もちろん救えなかった命が救えるようになったとかは好ましい形での理想の実現でしょう。

 

ただ僕が主張したいのは人間は無駄なものまで理想を現実にしてしまう生き物で、これとあれだけ理想を現実にすればことうまくいくものを、あれこれなんでも欲望のままやってしまって選択するときに制限みたいなのがないんですね。

 

これは人が持つ不幸性だと僕は思います。

 

いつでも人間の愚かさを戒める作品というのはあります。

 

それらはみようによっては人間の不幸の象徴であると言ってしまうとニヒルになるけれど、ことさらアドラーの教えに関しては僕はこんな推測をしてしまいます。

 

アドラーの教えの本は確かに売れています。ただそこにあるように、どんな相手であれ、結婚に関していえば、結婚できるのが人間であり、そうできないのであれば自分の人間性がたりないことをまず問題視して、磨き上げたあとでは生涯未婚率は改善すると。

 

しかし、それがまさに実行されるのであれば、テレビ、漫画、ドラマ、映画、なんでもいいのですが自由恋愛を謳ったというか根底にそれがある作品については価値観を相容れない。

 

つまりテレビなんてみない発想になってしまいます。テレビをみて影響される人たちの方が本を読んで影響される人たちより多い証拠なのですね。

推測が続きますが、結局、人間は楽な方、自由な方にどうしたって流れていくわけなんです。

 

ですがそもそも自由というのはなんなのでしょうか。

 

唐突に記事を終えますが、アドラーの教えにしたがって生きていった人間は我慢とか忍耐とか本質を見抜くとか客観性があるとかあらゆる人が生きていく上でそれこそ自由になるための素質が備わるわけなんですね。

 

そう考えると制限のあるなかでの自由、現実にしばられた限りなく現実に近い理想の方が、遠くにある手放しで感じられる自由や、手に届きそうにない神々しい理想よりも、よりよいものだったりするんですね。そういうことに多くの人間は気がつかない。

村上春樹が近代日本文学を嫌った理由。

騎士団長殺し』なんかでもその理由が明快にみてとれます。

 

村上春樹は何かの専門家に興味がないのです。不幸性を扱うだけの文学、人間のおかしみだけをとりあげた文学、社会問題にまっこうから改革しようと取り組んだ文学、さまざまありますが、

 

どれもバランス感覚という観点では偏りがあるのを認めざるをえなかった。

僕はこういう話をするのが好きなのですが、ここにあるビジネスマンと文学者がいるとします。

 

彼らは同じ新幹線にのっています。それも東北新幹線だとしましょう。

文学者は、「トンネルをくぐり抜けると雪だった」というような川端の感性をもし新幹線が実際にトンネルをくぐってそして秋田あたりで雪が降っていたならばその言葉を思い浮かべるのではないかと思います。川端の世界を追随するわけですね。

 

ところがビジネスマンだとそうはならないかもしれません。

 

ビジネスマンはたとえ川端の文章を知っていたとしても、それよりもパソコンで何か資料をつくっているかもしれませんし、この新幹線内のサービスで改善すべき点はないかとあたりを見渡して、雪やトンネルの存在に気がつかないかもしれません。

 

この例でいうところのビジネスマンと文学者は相容れないものなのです。それはなぜならば、彼らがそのおのおのの分野の”専門家”であるからです。

 

専門家である以上、生活やものの見方や価値観までもが専門家になってしまいます。

そういう知識は昔の日本ではあがめられました。

 

先生と呼ばれるためには何かに秀でた知識がないといけなかったんですね。

 

ところが昨今注目を浴びているリベラルアーツ的なものの見方は専門性を加味しつつそれを何に応用するかで技量を問われる知識の類なのです。

 

村上春樹がつくっているのはこのリベラルアーツ型の文学です。

 

これがまさに現代であり、おそらく村上春樹はあんまり普段の生活の中で何かを否定する、という感覚がないのではないかと思います。

 

かつての近代日本文学では、必ず作家はなになにが嫌いという主張をする作家がいました。だいたい大家はみんなそうでしょう。

 

三島の家具嫌い、太宰の運動嫌い、川端の機械嫌い、あげていったらキリがないほどみんな何かを否定し、それぞれの専門を極めていった。

 

あるいは文学のテーマを極めていった。

 

ところが現代はすでにテーマが近代においてつくられつくした中で生きている意味を見出さなければなりません。

 

そのために生き延びる方法は、何かと何かを応用して創り出されるもの、に限ると断言してもよい。

 

誰かが言っていましたが、急に新しいことができる人はほんとうに天才かバカかのどちらかなので、そういう人の出現は極めてまれなのです。

 

村上春樹は御存知、努力肌の作家です。

 

おそらくいくつになっても価値を否定せずにいったん受け入れて、どういうものかを理解する努力を怠っていないのでしょう。その努力は怠らない方が、世界は広がりますからね。

 

ただ一点、太る=醜い、の価値観だけはあるみたいですが。何かのエッセイで太るときれのある文章は書けないとかアメリカに住んでいたときに異様な太り方をしているおばさんをみて、どうしたらあんなに腰にふとんをまくような太り方ができるのだろう、みたいなことを言っていました。

 

便利なものは使い倒してから手放す。

パソコンを売りました。

 

今は漫画喫茶だったり親のパソコンだったり、つまり借り物でこのブログを書いています。

 

これからも僕の借り物人生は続くと思います。

 

所有したいものってなんでしょう。

 

この世の中で所有しなきゃいけないものってほんとは何一つないのかもしれませんね。

 

でもそういう発想とは別に僕は便利なものはいったん使い倒してから手放すといういわば新陳代謝のようなことをたまにやるのが好きです。

 

ずっと一個のものばかり愛用するという発想はそれはそれで見えてくるものがありますが、消耗品ではなく便利なもの、パソコンなんかはどちらかというと贅沢品で便利なものですね、それをいったんなくすと、アナログとしてのものの見方が加わったりします。結局、デジタルもアナログもどっちもあるのが現世なので、どっちの良さも知っておくのがベターなわけなんですね、生きやすくするには。

 

そして”借り物人生”は身軽になります。

 

話が飛びますが、親鸞が、もし苦労なきまた真実のみに着眼した人生を送りたいのなら誰も愛するな、と説いているのは有名ですが、

 

これは本当のような気がしています。

 

たとえばパートナー。所有するという感覚でいるからそれそうおうの幸せがありましょうが、そのかわりなくしたときにこれまたそれそうおうの代償、悲しさですね、を払うことになります。

 

そのサイクルがいやであれば、親鸞はそもそも誰も愛するな、と説くわけです。

 

そうすると幸せが自然と、対象が広いものになるんですね。

 

万人を愛するみたいな発想です。

 

これはこれでひとつの考え方でしょう。

 

僕はそうやって生きるのは統合失調症にとっては長い目で見た場合賢いように思うのですが、まあでも親鸞の域に達するまでのそれだけの間であらゆるストレスから身を守れなさそうなために発症したという見方もできそうですから、

 

こればっかりはなんとも言えません。

 

特別に好きだったり愛情を与えたい人がいれば、当面それで幸せなのであれば、何も親鸞がどうこう持ち出すことのほどではありません。

 

パソコン売ったのと同時にクレジットカードの解約もついでにやってこようと出かけたのですが、クレジットカードの解約はクレジットカードとキャッシュカードの一体型のカードだと解約したときキャッシュカードまで使えなくなって、キャッシュカード機能のみのカードが手元に再発行で届くまでに何週間か時間がかかるみたいでそれだとその間こまるので結局、手続きはしませんでした。

 

ここらへんで神様からストップがかかったように僕は解釈しています。

 

便利なものをなくしすぎると、それはそれでみえてこなくなるものがある、と。

 

ただ単純にクレジットカードが便利というよりあったら使ってしまいそうで支払いがもういやだというだけの理由だったのですが、クレジットカードはまたいざつくろうというときになったら審査とかあるし、ただたんに使わなければいいだけの話なので、そうしようと思います。

 

僕はそう計画していたわけではなく転んだ方に運というか福をみるようなそういうところが昔からあって、今回もクレジットカードはいざというときに、となんだかアドバイスをもらったように感じたのでした。

美意識の有言実行にはついていけない。

自分が持っているというか信じている価値観ってあるじゃないですか。

 

僕は人と会うたびにそれらが少しずつ変化していくのを感じます。

 

これはまだ若い年代のくくりに入る証拠なのかもしれません。

 

歳をとると自分の生き方を、たとえばそれまで50年間で築き上げてきたものを否定されると人間はいやな気分になる。だからそうは考えずに自分がとってきた道は正しかったと肯定し、明るい老後を迎える。

 

健康上はそっちのほうがすぐれているように思うのですが、僕はなんという言葉で表現したらいいのかわからないのですが、その価値観が歳をとっても揺らぐような誰かに会いに行く人が、賢者というかあるべき道のような気がしています。

 

僕は実は世の中にいる人は全員なにかしらの病気であり、なにかしらの哲学者であるという認識を、先日、お会いした人のお話をきいて抱きました。

 

僕は確かに統合失調症ですが、そういう意味においてはマイノリティではなく、病名がつけられるくらいなので、マジョリティなのかもしれません。

 

健常者には健常者なりの悩みとか苦悩があって、そういったものが統合失調症患者には共通のものとしてあるものもあればないものもある。

 

統合失調症患者からしてみたら、健常者の悩みが病的に思えることもある。

 

世の中の大きな犯罪をおかしている人間の大半は統合失調症ではありません。

 

話が変わりますが、先日お会いした人は、女性の方なのですが自分の遺伝子を残すのが嫌だからという理由でこどもをつくらないと宣言していました。歳は40前後の方です。

 

僕はそういうデリケートとよべるような類のことを宣言する人は、実はそこに幸せを感じていないのではないかとかんぐってしまいます。

 

このあたりは言語哲学の問題なのでどうも専門家ではない僕は直感でしか言えないのですが、

 

自分が本当に心のそこから幸せなときっておそらくそれを口にしないものなのではないかと。

 

僕の認識ではそうなのです。

 

だって何かしらの思想のもと、こどもを作らない選択をするのはそれが自分にとって利益だからでしょう。

 

そういう利益はふつう公言しないし、あえてそう宣言しているところに不幸性もみてとれてしまいます。

 

みんな他人と結局は自分を比べているわけなんですね。

 

でも僕は価値観が揺らぎました。

 

なぜなのかはあまりよくわからないのですが、おそらくそのこどもをつくらない宣言に美意識をみたからだと思います。

 

誰かの美意識を垣間見る瞬間は、なんというか踏み込んではいけない領域のような感じがします。ただ美意識の有言実行には僕はついていけません。

 

有言実行というと肯定的な価値観のように広まっていますが、口ではああ言っているけれど、行動をみるとこんなところがあるよね、のパターンに僕は憶測を働かせてあれこれ現実にはそうじゃないかもしれないけれど、可能性としての捉え方のほうに生きている喜びを感じたりする。

 

僕は自分の意見を最後にその方にこう伝えました。

 

「僕は統合失調症で遺伝する影響もあるのでこどもをつくるとしたら、生まれたこどもが生きていることを全肯定して生きられる世の中であれば、喜んで結婚してこどもをつくりたいと思うのですが、そういった社会は永遠にこないので、結果的に理想の前に敗北するのではないかと」

 

僕の場合、これは美意識ではなく、ただ率直に思っていることを述べただけです。

 

そしてこうも伝えました。

 

「そういった社会の方の偏見や軋轢をなくす活動は非常に立派だと思っていますが、僕は今のところそういった障壁は障壁だと認識して、その中で生まれてくる文芸作品だったり科学上の発見だったりの方に人間の未来を感じます」と。

 

その方は、魅力的な笑顔でこういいました。

 

「そうするとその軋轢とか障壁が、生まれた作品から振り返ってみると輝いてみえますね」と。

そのとおりだと思います、と僕は答えました。

毎日パソコン触っている人がパソコンを売ったらどうなるんだろう。

パソコンって使用用途が多すぎてそれがなくなることによるデメリットが把握しづらいんですね。またメリットも不透明です。

 

僕はスマホを持っていないので、DIGNOケータイというガラホなのですが、この端末だと動画は再生できない。

 

よってエロいやつとかSNSで作曲動画をアップしている友達の作品とかyoutubeとかyoutubeで400円とか払ってたまに観ていた映画とか、それらが見れなくなります。

 

でもこれはデメリットなのでしょうか。

 

ある便利だなと思うものがなくなっても人間なんとかなる。

 

僕の場合、完全にネットから断つのは難しそうなので、DIGNOケータイのガラホだけは残そうと思うのですが、パソコンをいざ手放すとなると、たとえばこのブログだって書けない。

 

まあ漫画喫茶とか行って書いてもいいわけなのですが、お金がわずかでもかかってしまいますね。近くにあるわけでもないので書きたいことをいつでもすぐに書けるわけでもない。

 

それは念頭におきながら、僕が注目しているのはパソコンという体を動かさずに消費するコンテンツを摂取するのをやめた場合、極めて昔のそれも幼少時代の感覚が戻るのではないか、と。

 

もちろんこれは僕の幼少時代です。今の子たちは幼少時代からなんかしらの端末がありますから、ちょっと状況が違いますが、僕が小さいころはせいぜい電子手帳だったので、僕はサッカーに明け暮れている子供でした。

 

そのころになんとなく戻れるような気がする。

 

面白いコンテンツを得ようと思ったら、出かけようとするんじゃないかと思うんですね。

 

映画を障害者手帳を提示して1000円で観てもいいし、家にいてとにかくパソコンをいじることができないのであれば、休みの日なんかは犬の散歩だけ済ましたら街に繰り出すようになるんじゃないか、と。そうすると感性というか物の考え方が、昔の人に戻るのかもしれません。僕の両親くらいの世代に。

 

ただデメリットの方に、パソコンがなくなると一見、物が減ってミニマルに近づくようになるのですが、実際は電子版でいろいろパソコンに入っているわけです。電子版で買った本とか、書類とか、写真とか。

 

だからパソコンがなくなって、逆に物が増えるとなると僕にとってそれは不本意なんですね。さあどうするか。

 

僕の中で使わずに置いておけばいいという選択はあるようでないのです。

 

僕は何か便利なものがあったらそれを我慢とかできずに使ってしまいます。

 

パソコンが傍にあったら触ってしまいます。

 

困ったものです。