がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

市場の失敗。

大概の人間は真実を嫌う。真実は残酷だからだ。真実VS浮世というものがあったら、

真実の方が尊いはずなのに、

 

ときにその価値観は浮世に相容れないものとなる。そこで仕事の市場では、あなたはどういうふうに生きたいかそのビジョンを訊いてくる。

 

ことわりを入れると、一部の会社を除いて仕事とか会社は真実を求める人の自己実現の場とはならない。

 

真実は美的価値を要求してくるからだ。

 

美的価値と営利の両方を実現している人間は、存在しない。

 

美的価値の美が美であるゆえんは、それが浮世に対する反作用の価値観を持つことによる。

 

会社で働いている人間の価値観と同じ価値観しか提示できないのであれば、それは価値が低い情報の真実なのである。

 

経営者は、一部のエリートを除いて全員、こういう構造に気づいていないかあるいは鈍感なのだ。

 

自分の手腕が、常に美的価値を持っていると誤解している。

 

哲学者よりも経営者の方が多いことこそが、

 

語源の意味の市場の失敗ではないか。

 

真実は常にマイノリティ側につくというこの事実を、

 

悲しく思うのは間違いか。

 

 

犬と病院。

ぼくは発症してから何一ついい習慣が続かなかった。

 

はじめのころはスポーツジムで運動をしていた。今は運動していない。

 

禁煙しようと思ったこともあったが一日として続かなかった。

 

風俗もやめたいと思ったけれど、できなかった。

 

今、ダイエットをしているが幾分か効果は出ている。

 

でもこれはただ単純にアパート借りて一人暮らしでお金がなく自然と節制、とくに食べ物に関してはそうなっただけだ。

 

仕事も全く続かない。発症してからダメ人間もいいところだ。

でも今日、病院に行って思ったんだ。

 

僕は病院通いは続けたな、と。

 

都内に勤務していると、雑音がすごい。

 

欲を誘発するモノで溢れている。

 

食欲、性欲、物欲。

 

病院にはそういったものが一切ない。

 

グラウンドがあって、簡素な身なりの職員さんがいて、

 

受付の事務は扇風機が似合う感じだ。

 

僕はこのギャップを知っている。

 

騒がしいなかにいる自分と、

 

ゆったりとした時間の流れの

 

なかにいる自分。

 

この感覚がすごい大事なのだと

 

ずっと噛み締めていた。

 

相対する価値観の一方を切るのは楽だ。

 

僕もそうしたいができないしやらない方が

 

いいのかもしれない。

 

通院から帰宅すると犬が待っていた。

 

ももう四年以上飼い続けている。

 

犬も何か不満はたくさんあるかもしれないが、

 

四年続く習慣をダメ人間の僕に与えてくれたのは、

 

病院と犬である。

 

もし病院と犬がいなかったら、

 

僕は喫煙習慣だけがだらだらと続いた

 

コンプレックスだらけのおじさんに

 

なっていただろう。

 

病気じゃなかったら犬は飼わなかった。

 

病気じゃなかったら病院にも行かなかった。

 

正気を見つめる文章。

最近、いつもこういうことを考えているのだけど、

 

人生を苦難なくすすむ道には、おおぜいの価値観から一歩それるという手がある。

 

ちょっとコツがあって、

 

なるべく一人でいる時間をつくるという手だ。

 

これにはもちろんつとめにんの場合、

 

いただいた、あるいは人件費を削られて否応なく休みの場合を好機ととらえるだけの前向きさがいる。

 

休みはチャンスなのだ。

 

僕は仕事に行く日は仕事が終わったあと服を買ったり、ジャンクフードを食べたり、風俗に行ったりと、何かとお金を使ってしまうせいかくである。

 

休みの日はストレス発散の名のもとの消費がない。

 

純粋に必要なものだけ買える。

 

そうすると稼いだ日はそれそうおうだし、

休みの日もそれそうおうなのである。

 

出費が。

 

そういうじったいがあると、

 

シームレスな出勤がとだえる日は、

 

人がおおくとる行動にそう必要がない。

 

仕事の日は、仕事前にごはん食べなきゃもたないとかあるけれど、休みの日は

 

いつどれだけの量、多くても少なくても

 

自由なのだ。

 

で、まわりみちしたが、自由さは、

 

たとえるなら、友達のわから外れて、

 

自由行動していいと言われた集団行動に似ている。集団でいると、

 

好きなものを好きなときに好きなだけ、

 

というのができない。

 

漫画家の蛭子能収がテレビでうけるのは、

 

自由がわがままにみえるのだが、

 

みてる方が快感だからである。

 

人は度をこして、自由行動をとる

 

憎めない人間をみたときにうらやましさと

 

同時に好感をもつのである。

 

そしてタイトルにあげたとおり、

 

自由がすぎて狂うの防止のためには

 

文章であり、言葉で内面をみつめることである。

 

行動が奇抜にみえても、

 

自分の中で、理由を言語化できる不安のない外れた行動ができるものなのである。

風俗通いは別にやめなくてもいい。

独身の男がたまにの風俗通いをやめたい、と思うのは、たまに今日は美味しいお寿司でも食べようか、をなくすのと同様の行為である。

なんかのプライドなのかポリシーなのか風俗通い自体をさげすんだりする価値観ってありますが、あれはひがみややっかみと一緒で、風俗というものが市場原理で存在している以上、感情でそれを否定する人間は人間的に未熟なのである。

それと同じように、多くの人が、うしろめたいと思っていて実行できないことのひとつに、会社を月に一回ずるやすみをする、というものがある。

月に一回くらいはずるやすみをしてもかまわない。
ふだん、めいいっぱい仕事に身を捧げ、休んでいいよ、と管理職から言ってもらえるだけの信頼関係は必要になってくるが。

そして大事なのは特に僕のような病気であれば、いったん会社がなくなったとしてどう生きようかというようなふだん、仕事しているときには考えないことをシミュレーションしてみたりする余裕を持つことである。

会社というのは、人間と一緒でその一個の組織内において、変な癖をどの会社もかならず持っているものである。

皆勤賞みたいなのを誇りにばかりしているとそういった明らかにおかしいところを見抜けなかったりする。

でんつうという会社の失態もおおむね、こういう視点が欠如したことにより起こった。

何も考えずに、会社の方針にだけそうと自分が本来、見渡せていたはずの視点が曇らされることになる。

だから月に一回くらいはいったん心を会社から離すのが大切である。

僕はストレスが昨日Maxにまでたまってしまって病院の先生からの、疲れたら絶対に休んでください、という言葉がちらついたので、実行した。

会社を月に一回ずるやすみをするのは、消極的なのではなく、積極的に賢くこの世の中をわたってサバイバルするための構えなのである。

その際に必要なのは、休んだ日いがいはきっちり自分ができることはやったという自負と、明日からの仕事にまた備えるという準備の構えと、なによりも自分で自分を守るためとうそいつわりなく感じた休んだことによる後悔のなさ、である。

男と女の違い。

男は戦争の象徴で女は平和の象徴と言いますが、これには様々な文献がありましょうが、ただ単純に男の性器をみればすぐわかることです。

 

槍、棒、パイプ、なんでもいいんですが要は性器が突き刺す道具の形をしている。

 

実際セックスのときも刺しているわけですよね、言葉の表現をすれば。

 

そしてそれ以外にも、男には不思議なメカニズムがあってそれは性欲がいったん解消されたら、すぐには発情しないことです。

 

つまり女より夜に理性的になっている時間が長いわけです。

 

これは昔狩りをしていたときのメカニズムがひきずられているとか

 

またたくさんの参考文献があると思うのですが、

 

要は持続するものがなにもないんです。

 

勃起だってずっと続くわけではない。

 

世界の認識の仕方が違うわけなんですね、男と女で。

 

たまに男だからとか女だからとかそういう議論に興味がないと言って

 

女が男が旧来担ってきた仕事に就いたりすると新聞なんかで書かれるわけ

 

なんですが(女性警察官の活躍の記事など)これは前提として

 

男が優位であるという認識のもとで書かれているのは自明です。

 

もちろん優位とか劣っているとかはほんらい男女関係ありません。

 

とくにいわゆる学問的なことだったりに関しては女でも理路整然としている人はたくさんいるでしょう。

 

僕がここで述べたかったのはひとつには性差による暴力の有無です。

 

男はもしこの世に法律がなかったらまず暴力を働きます。

 

女はもしこの世に法律がなかったとしてもせいぜい金を盗むくらいでしょう。

 

暴力は金より強いわけです。それが原始社会であれば。

 

幸いなことに法律国家なので暴力は限りなく少なくおさえられ金がものを言う社会になっていますが、暴力の説明である筋肉は男の方が多く、

 

それは、今の法治国家が文化として平和を維持してきた中ではよりいっそう際立つようにできているのです。

 

ローマ時代に筋骨隆々が珍しかったとは思えません。

 

そういうセックスアピールも、すべて比較においてなされます。

 

現代は暴力がいらない社会ですから、

 

男が女に近くなり、男女雇用均等法みたいなものを出すまでもなく女が男に近づいている。

 

男が持っている暴力性などなくてもいい社会ができている。

 

でもそれだと人間、退屈なんですね。

 

格闘技でもなんでもいいんですが人間、何かしたいわけなんです。

 

で、そのなかのもののうちもっとも何か行動したいという変な衝動が

 

凝結されるのは戦争です。

 

上に書いたことは、論理の飛躍だという人は、人間への洞察が鈍い。

 

戦争は、よって、必ず起こるという認識に立つのが賢い視点であり、

 

またそれによって男側も満足したりしているわけです。

 

そういうからくりを知ると、

 

戦争放棄!と唱えている人も戦争賛成!と唱えている人も

 

どっちもやっぱりただの人間でただの男なのです。

 

この男のメカニズムを知り尽くした男がそれでは幸せかというと

 

そうはならないところに不思議さがあります。

 

 真理を知った男はみな最後が悲劇的でしょう。ニーチェひとり挙げるだけでもじゅうぶんでしょう。

 

それでこの文章の結論は男は幸せになりたかったら少し上でも述べましたが、

 

女性的になることです。好きになった女の考えに翻弄されるくらいのなよさが

あれば二人でうまくいきていけます。幸せになれます。

 

僕もそんなふうになりたいと思うときがあるのですが、

 

問題はいざそうやって幸せをつかんだときに、その瞬間にも、ニーチェのような、あるいは僕が述べたような男がつぎつぎとあらわれるという点です。

 

彼らは文字通り強い。なんで強いかというと人工的に計算的に女性化もされていないし、

 

要は原始的に男としての本能で生きているからです。文明社会ですから本能に知能も当然くわわります。そういう人間のほうがサバイバルできるわけなんですね。

 

日本の衰退は、女がそういった原始的本能的ではない、本質や真理を知らずに生きている男を求めるようになったからだと僕は思っています。

 

話を戻すと、僕は男女の差についての議論をするときに、その動物としての性格を無視している場合は根本的なところで議論が成り立たないと思っています。

 

男は永遠がわからない。女は未来永劫続く幸せを信じている。

 

どっちも男側と女側それぞれの立場に立てばそれは真実ではありますが、

 

特に女性化がすすんでいる男たちの前で女のそれはますます強いものではありますが、

 

それは繰り返しますが、女性化がすすんでいる男が多い日本だけの話です。

 

 

デジャブの恐怖。

昨日、いつものように働いていたら、それも一生懸命働いていたら、急に視界にデジャブ感が襲ってきました。

 

あれこの風景をみて、「あのときも同じ風景をみてあれこの風景は確かに前にも」と思った瞬間があって、

 

僕はさっとほかの作業に集中して頭を切り替えたのですが、あのままデジャブ感の光景を食い入るように見入ってしまったらどうなるんだろうとか後になって考えてしまいます。

 

あれは僕の中で幽体離脱と同じ構造なんですよね。

 

幽体離脱というのは金縛りがおこったあとやってきます。

 

金縛りはなんとか自分でほどけることもありますが、幽体離脱ユングフロイトをもちだすまでもなく行動の源が性欲なので(専門書にはリビドーとか書いてあります)、

なかなか強い呪縛感なのです。

 

ほら性欲って一回考え出したらとまらなくなるときあるじゃないですか。

 

それは大人であってもいっしょのような気がします。痴漢ニュースはあとを絶ちませんし、すべての人間社会の諸問題は性欲が直接的にではないけれど、影響を及ぼしているのではないか、とか考えてしまいます。

 

で、話が戻るんですが、

 

幽体離脱もそうなのですが、あれは意識があるなかでの出来事なのでほんとうに怖いんです。自然と振りほどきたくなるんです。

 

意識がすっと動いてたとえばベランダにまで行ったとします。

 

そうするとその瞬間、飛び降りるか飛び降りないかの判断が自分にまかせられているのです。

 

そこで開放感にまかせてえいやっとベランダからたとえ肉体はともなっていなくてもやったとしたら、どうなるんでしょうか。

 

実はそれを実験した人はこの世の中にまだ一人もいないのです。

 

立花隆が著書で『臨死体験』という本を発表しています。

 

これは三途の川をみてきたという瀕死の人間の古今東西とわずあらわれる共同幻想がある実態を、身をもってリサーチしたもので、立花隆自身、具体的にどうやって環境を構築したかは僕はしっかり覚えていないのですが、

 

とにかく瀕死の状態と同じような脳の構造をつくって実験してみたという本です。

 

でも結論からいうと立花隆はそういった魂みたいなものが存在しないという証明もできなかったわけです。なので結局、科学にもわからない、とにかく脳の構造はまだまだぜんぜんわからないと述べるにすぎない結論だった。

 

僕はオカルトを信じているわけではないのですが、デジャブのさなかにその光景を凝視する、あるいは幽体離脱中に怖い行動を思い切ってしてみる、というところに別世界があるのではと考えているところがあります。

 

でもこれは別に変な話じゃなくて人間そういうなんだかよく自分でも説明できないけれど感じたりやってしまったり信じたりするところは必要な気がします。社会は理性で成り立っているので、寝る瞬間とかデジャブ感のときにはそれがうまい具合に外れるぐらいで人間バランスがとれているのでしょう。

 

前のどこかで書いた内田樹がUFOを信じているなんていうのもそういういわば人間のバッファ(余白や余分なゆとり、余裕)を生きていくうえでもたせているというひとつの合理なのです。

 

人間は一人残らず、みんながみんなどこかおかしなところがあります。

何かを捨てるのは快感だ。

ちょうどガラケーにしたこともあり、gmailのアカウントをこの機に削除しました。

 

僕は定期的に何かをそうやって捨てるのが快感です。

 

特に長年使っていたものを捨てる瞬間は、本当に必要ないと判断できたとき、脳内で変な物質が出ているのでしょう。

 

でもなんでそういう行為に快感が伴うかというと、「これからライフスタイルが変わるかもしれない」という展望があるからです。

 

ライフスタイルの変化について考えるのは僕は楽しいと思うタイプです。

 

これにはいろいろな理由があるのですが、僕は昔は変化を好まない人間でした。

 

ルーティンワークの方が楽だしとかこのブログの最初の方にも書きましたがずっと同じ服着ているのはかっこいいしとかとにかく一つのものに愛着を湧かせるというのが苦手になってきました。

 

で、先に言いたいことを全部書くと、そうやって無駄なものをとっぱらって最後に残るものがほんとうに必要かつ愛着が湧いたものなのかなと。

 

かえがきかないというか。

 

だから離婚って、僕は離婚する人のみんながみんなそうだとは思わないんですが、欲望がつっぱしているような気がします。

 

よく感情的な人間は醜い、そのためのコントロール術みたいな本がありますが、離婚は感情を表に出さなくとも、行動で出している醜いといえば醜い行為です。

 

なんかしらの自己主張を感じますからね。

 

幸せ求めすぎているみたいな。

 

まあそれはおいておいても、僕にとって最後に残るのが犬だったら、なんとなく人生勝ったという気がしないでもありません。

 

人生というのは自分で価値をみつけたりすてたりの繰り返しで判断されるわけですから、僕のなかでそこの価値は結構大きいのでそのとき財産失おうとなにしてようととにかく犬と無事、この世を生還できたときに、だれから言われるでもない、自分で自分に勝ったぞ、と言ってやりたいわけなんです。

 

思えば、芥川賞をとった『コンビニ人間』の評論で、こんな趣旨の文章がありました。

 

「人には誰にたくすわけでもない自分で試みた勝負に、勝った負けたという戦いを挑んで、実はその戦いがはたからみてどんなに無意味だったりむなしかったりするものであっても、人にはそういう側面がある。つまり目標を立ててそれに打ち勝つことに生きている価値がある。そういった勝負の構図を自分でつくりだして戦うさなかに真の創造性があって、このコンビニ人間はプロットづくりからはじめておわりまで物語をとちゅうこけることなく書き上げ、まさにその勝負に見事に勝ったわけだ」

 

そうなんです。なんでもいいんです、人間なんて。

 

目標があると張り合いできるじゃないですか。

 

そして目標に向かっていった結果も、自分で結果の価値を判断する。

 

そういうことが客観的にみてずれているとか共感性がまったくないとか思われずに達成できたら、それだけでもう大したものだと思っています。