一夫一妻制が崩れたらどうなるか。

大前提として、男の方が女より性欲がある。これは脳科学的に裏付けのある話です。では一夫一妻制が崩れたら社会および人間はどう変わるでしょうか。僕は「今さらは無理だけど最初から一夫一妻制がなかったらそれはそれでそういう社会だった」と思っています。

 

つまり一夫一妻制だと文化が成り立つんですよ。

 

人間ってもし好き放題セックスができるというふうになった場合、限りなく動物社会に近くなってくるんですね。

 

それがなぜよろしくないとされているのかは、そもそもそういう論を立てられる人間は基本的には一夫一妻制の文明社会によって育ってきたからです。

 

つまり最初から一夫一妻制でなくて好き放題セックスができる社会であってそれが未来永劫に続けば何も問題がないのですが、歴史がそれを否定したことを物語っています。

 

動物社会から脱した進化は必然であった。とすると、今さら動物社会には戻れないというか戻っても意味がないのです。戻ったところでまた文明社会が再建されるわけですから。

 

僕は今の人類の構造ってまだ発展途上なのだと思っています。まだまだ進化し続けてそのうちこどもをつくる発情期にだけ性欲を持つという種類の人間ができあがると思っています。例えば千年後くらいに。

 

人間は食欲はコントロールできるようになりました。太りすぎているとメリットがないように文明社会が教えてくれたからです。ふつうの現代人はほどほどにご飯を食べます。

 

睡眠もまたコントロールできるようになりました。ライフラインの通った快適な家で1日8時間安心して寝られるのは本来誰だって受けられる権利です。

 

さて性欲はどうでしょう。食べ物の奪い合いで殺人をする人は今いないですね。睡眠欲の奪い合いで殺人をする人もいない。男女問題だけが殺し合いに発展するのです。

 

ただもし男女問題、つまり性欲にまつわる不満がなかったら人間社会は発展しません。進化もないわけです。何も不満がないとは何も変化がないことです。

 

性欲がなくなった男はただ生きるために生きている人間になります。それを避けるために男は女を追い続けて、一夫一妻制は崩れていくのですが、これは述べたように人類の進化のためには必要な行為なのです。

 

女の場合はどうか。女は家庭つまり巣作りが最大限に機能することを幸せとしています。それがお金でしか成り立たない幸せであれば、やはり夫に一夫一妻制を崩すような性欲の在り方を容認するしかなく、浮気も離婚もない、ステレオタイプで語られる理想的な夫婦というのは、言い換えるといくらかは情報弱者なのです。

サリンジャーはなぜ隠居したのか。

サリンジャーといえばホールデンというくらい、物語の主人公と作家が密接につながっているケースも珍しいですね。

 

それはサリンジャーが寡作家だからだとも思いますが映画『ライ麦畑の反逆児』を観るとサリンジャーは印税が大量に入ってあえて新しい作品を作る必要がなかったという単純なことにも気づきます。

 

ふつうであれば生活費や自己投資が新しい作品を作るモチベーションになりますからね。

 

それと『ライ麦畑の反逆児』には描かれていないですがサリンジャーは私生活を公表しないという約束のもと、田舎の暮らしの中でふつうに教会に行って地元の人たちと交流をしたりといった側面はあったみたいです。

 

僕はサリンジャーは奇人や変人ではなく純文学作家らしい作家、というふうに捉えています。奇人や変人であれば結婚とかできなかったのではないでしょうか。

少なくともこどもを作るまでの過程ではパートナーとも問題はなかった。

 

ただ志願兵で戦争に行って得た体験はかなり作品に影響があったでしょう。天才は精神病か変人のどちらかという説がありますがサリンジャーPTSDです。戦争に行ってやつれなかったら案外チャラチャラとまではいかなくてもどこにでもいる青年っぽく青春を謳歌したのではないでしょうか。

 

PTSDによって精神状態が良くなかったときに禅の思想に傾倒する過程も映画では描かれています。もし戦争に行かずに悲惨な体験をしなければ都市風俗を感知するセンスとライティングのスキル、つまりテクニックだけで書く作家止まりだったように思います。

 

PTSDサリンジャーの作品に思想をもたらしたのです。サリンジャーホールデンの物語をずっと考え続けることで、それが命を守るお守りみたいになっていたのですね。

 

晩年、命の恩人であるホールデンを汚すような商業的な映画化を好まなかったのはそう考えるとすごくよく理解できるのではないでしょうか。たとえば強盗殺人犯に殺されそうになったところを勇敢な警察官が殉死して自分を庇った場合、その警察官を悪く言う人の存在にはふつう耐えられませんね。

 

思想を持ったサリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』は現在でも売れ続けるほど人気を博します。それは言葉にセンスやテクニックだけではないものが入り込んだからでしょう。サリンジャーの作家としての天才性とは、「もともとあった才能に努力が加わり、最後は幸せなのか不幸なのかはわからないですが戦争体験という"運"も加わったところ」ですね。

 

つまり天才というのは少なからず悲惨な目にあって辛すぎる経験が、意図せずにないとできあがらないものなのです。

 

サリンジャーの半生が教えてくれたことです。

 

iphone単体で使える赤外線リモコンアプリはない。

何か外付けでハードウェアをつければできるだろうけど。ちなみに、テレビ、リモコン、アプリ、と検索して出てくるものは、テレビがネットにつながっていることがそのアプリを使うための前提だったりします。

 

iphoneには単体ではワンセグもないし、

 

とことんテレビ、というものとは相性が悪いのです。

夜ワイファイ使えない原因は寒気による凍結。

ソフトバンク光にして半年が経ちました。症状としては夜8時から朝8時までソフトバンク光からレンタルしている無線LANルーターの警告(黄色)ランプが点滅してインターネットが使えない。またその間ONU装置の認証ランプが点かない。

 

はじめ僕は混雑が原因だと思っていたのですが現在ソフトバンク光からレンタルしている無線LANルーターは混雑を回避するためのIPv6対応のルーターなので原因はそこではない、とサポートセンターに言われました。

 

ちなみに僕は実際にスマホ無線LANルーターの中に入って調べましたところ確かにIPv6の設定がされていてなおかつ無線LANルーターにはIDとパスワードを設定するところがありません。なのでそこはいじるところがなく原因はNTTの回線にある、と言われました。

 

それでNTTの作業員に来てもらったところ原因は寒さによる凍結での接触不良と言われました。アパートの外に設置してある回線装置の中でノリのようなもので接続してある回線を新しい接続方法であるガラスを使用したものに変える作業をしてもらいました。

 

そうしたら見事に夜もインターネットが使えるように。ちなみに作業員に来てもらう費用は原因がこちらになければ無償です。当たり前ですが。

 

僕は疑問に思ったので

 

「たとえば東北地方や北海道のような寒いところに住んでいる人たちはインターネット、どうしているのですか」

 

と作業員に聞いたところ、

 

「そういった地方ではそもそも光回線が普及していない」と言っていましたね。

 

僕は寒さによる凍結でそういう現象が起こることを知らなかったので一つ学びました。

 

もし他に原因がなさそうでインターネットの調子が悪いという人は季節が冬であることが原因の一つです。

 

サポートセンターに電話して作業員に来てもらいましょう。

 

またソフトバンク光は、こないだ携帯回線の方で大規模な障害が起こったせいか、僕がサポートセンターへの電話でしきりに、困るんですけど、と申し立てたら

 

今後の通信料金から毎月千円の割引の適用をいたします、ご不便をおかけしたので。

と言ってくれてお得になりました。

 

まあ実際には夜の間にワイファイを使えなかったので追加のデータ料金をワイモバイルのスマホで払っていたので

 

トントンくらいになっただけですが。

 

というわけで長くなりましたが、

 

あなたのインターネットが使えない原因は寒さによる凍結かも。が結論です。

 

統合失調症患者のジレンマ。

やっぱりある程度は生活リズムを

整えることに意識を向けた方がよいように思います。

 

統合失調症患者にだってやりたいことや夢があるけれど年金や保護費をもらっている以上、むやみに他人に迷惑をかけられないですね。

 

ただそこだけを優先すると今度は、ただ生きるために生きる、みたいになってしまうおそれがあるので僕としてはそれは避けたいところなのです。

 

今日僕は仕事を受けている会社から今年度の支払調書なるものをいただきました。

 

これによると僕は微々たる原稿料ですがお金をもらって源泉徴収もされているので一応税金もわずかですが払っています。社会とのつながりですね。

 

これを大事にするためにも体調管理。

 

僕は思うのですが表現活動をしたい統合失調症患者は一つ免れているデメリットがあります。

 

それは「無茶をしなくていい」ということだと思うのです。

 

もうすでに無茶な状態(病気)なのでむやみに突っ走る必要はないのです。だって慎ましく暮らしていたらお金は自動で入ってきます。

 

ただ繰り返しますがそれだけをいいことにチャレンジをしないのはよくないことです。ここにジレンマがあります。

 

こういうときに役に立つものは僕の場合、昔に観た映画です。名画です。

 

たとえば『パピヨン』という映画があります。

 

これは最後まで自由になることを諦めなかった囚人の友情と本当の意味での行動を描いているのですがこの精神性は統合失調症患者および生活保護受給者には必要かと思います。

 

上に述べたようなジレンマがあることでついお金を必要以上に使ってしまう日もあるでしょう。

 

それを挽回するためには考え続けることだと思うのです。そして判断し行動する。

 

たとえば日割りの使える分の保護費が尽きたときに体を使って運動をして一日を過ごすなんてことは運動が好きで好きでしょうがないという統合失調症患者さん以外、僕のような三十代後半にもなるとしんどいものですが運動にはメリットがあります。

 

つまり不眠なんてことがないし、お金もかかりませんし、統合失調症患者さんの大敵である糖尿病からも身を救います。

 

運動はツライけれどやればメリットが確かにあるのです。僕は、でも健康で明るい統合失調症患者の、その目標だけを追おうとは決して思わないのですが、それでもたまにはそういう苦労も大事なのだと自分に言い聞かせます。

 

そうです、ポイントは、苦労、です。

 

ちょっと嫌だなと思うことをあえてたまにはやらないととんでもなくワガママな統合失調症患者になるでしょう。

 

その苦労が正しい努力であるためにも映画を観てセンスを培うというようなことを来年も継続したいです。

 

『ボヘミアンラプソディ』の衝撃と。

2019年まであと少し。ここで今年、2018年は何だったのか、という個人的な観点を。

 

僕はバルセロナのサッカーが好きだった。具体的に言うとペップ時代のサッカーだ。このブログでも書いた通り、あのシャビ、メッシ、イニエスタ、おまけにペドロの攻撃が好きだった。

 

あのサッカーには哲学がある。つまりボールポゼッションを究極的に高めて体力を温存。取られたときに猛ダッシュでボールを奪い返す。あれは僕の患者人生の中で強烈に模範となったスタイルだ。つまり積極的にゴールを目指すというより技術(知識)を蓄えて、体力(行動)はリアクションのときにだけ使う。

 

僕はこれで人生がうまくいっている。この哲学を参考にしたことで不用意な行為をしなくなった。ずっとベッドに横になってスマホで情報収集して体が起きたい、と思ったときに起きる、というような行動をリアクションありきでこなすスタイルだ。

 

この方法は理にかなっていた。計画というものを立てないわけだから、計画を立てる手間がかからない、動きたいときに動くわけだから体もストレスを感じない。

 

本当にうまくいっていた。だがこれは消極的といえば消極的な生き方だ。相手にボールを取られたときにしか全力で体力を使わない。つまりはじめからゴールに向かって全速力ではないのだ。

 

だがバルセロナのそのサッカーは究極的なものがあった。結果だ。勝利という結果が出続けていた。過程がパス回しという消極的さであっても決めるときにゴールを決めて勝ち続けていた。

 

先日、映画『ボヘミアンラプソディー』を観た。僕の人生の中で一番ではないけれどかなりの上位に来るベストいくつかの中に入る映画。

 

フレディマーキュリーの半生は結果が最大限に出た上に"積極的"であった。

 

夢や目標に向かって全速力で結果が出た。それに多くの人が感動したわけだが、この生き方は、と思ったのである。

 

結果が全てで泥臭い全力の過程をすっ飛ばしたバルセロナのサッカーはたしかに結果は出た。だが、『ボヘミアンラプソディー』にあるフレディマーキュリーの在り方はもっとすごいように思えたのだ。バルセロナで勝ってもフレディマーキュリーで勝っても人生は等しく勝ちだ。

 

だが最後はフレディマーキュリーで勝った人が本当の人生の勝者なのではないだろうか。フレディマーキュリーはたしかに早死にしたがそれでもきっと本人に悔いはなかったであろう。僕が今年最後の最後で受けた衝撃は新しい生き方として2019年に表現したいと思っている。

美のカリスマになりたい。

美容師や今だとマツエク施工者など

いつの時代も外見を彩る職業は廃れることがありません。

 

僕の独断ですが、こういった人との直接的なコミュニケーションや細やかなその相手に合わせたコーディネートを提供する仕事は、人工知能や機械などに仕事を奪われることはないのではないかと思っています。

 

というのもこのブログで僕が発見した通り人工知能というのは要するにデータのディープラーニングです。データのディープラーニングは人間の勘というのは出せないのではないのかと僕は思います。

 

将棋などの世界で機械が強いのは、あれは将棋のマス目の数があらかじめ決まっている、つまり有限の場所においてのゲームだからです。

 

美のコーディネートにはそもそもデータの軸の取り方がたくさんある上に、毎年どんどんアップデートされていく流行というものがあります。しかもその流行はまったく例えば70年代と同じというふうにはならずにちょっと今のこういう社会的なムーブメントを取り入れた70年代風。といった感じになる場合がほとんどでしょう。

 

そこでその付け足しの部分は予測や勘といったものとなるように思いますが、

 

データを蓄えた機械の勘と人間の勘とおそらく確率論的になる意味では、つまり百パーセントの確信ではないという意味ではどちらも勘なわけです。

 

人間にも活路があるのは瞭然でしょう。

 

先日、「ボヘミアンラプソディー」というクイーンの伝記映画を観に行きました。その映画の中でフレディマーキュリーは、LGBTのセンスを生かしたパフォーマンスをしていて、要するにそこが僕には一番印象に残ったのですね。

 

LGBTが才能と同義ならば、その同義のあり方は精神病患者とも同じようなものだと僕は考えます。

 

僕は誰かが自分が理解力や頭の良し悪しなどでこっちの方が良いとアドバイスをしたとして、それが受け入れられるという結果をそんなに喜ばないんです。

 

そういう考え的なところはいつの時代でも揺れるしそもそもその道でもっと卓越した知識を持っている人間は五万と自分以外にいます。

 

それよりも例えば僕が相手のライフスタイルや外見的美意識傾向を考慮して、あげた服やカバンや靴などを使って気に入ってもらえたりするようなことに喜びを感じるのです。

 

美容師やマツエク施工者などはダイレクトなそういう仕事ですがそうではなく間接的なものとして今僕は文章を書いている。でも何かもっとダイレクトな形でそれを実行し与えられるような、具体的な仕事のイメージはまだありませんが、にシフトしていきたい。むしろそれは仕事という形のものではないのかもしれませんが。