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がんばれないひと。

統合失調症を発症して八年目。思っていることとか人の役に立ちそうなことを書いている雑記ブログです。

仕事が嫌いな理由。

人間自体が矛盾した生き物なのでその人間がつくる社会は当然矛盾に満ち溢れたものになります。

 

それがもっとも顕著かつ身近に表されているのは会社でしょう。

 

僕はSNSでブログに書くまでの分量にするのは大変だけど面白かったこと感じたことをぱっと投稿するのが好きなのですが、

 

仕事に関する、それも現場での仕事環境や状況について書くのは一切やめるという方針を立てています。

 

その他の投稿も基本的には非公開です。

 

それが社会人としての常識という理由なわけではなく、

 

とにかく仕事の現場って想像していた以上に、変、なんですね。

 

何が変かというと、ほとんど仕事もせずに読書ばかりしていた僕からすると

 

ついていけないくらいの、非論理さなのです。

 

そうです、本を読む効用は論理的に物事を考えられるようになる、というものがありますが、

 

それにあまりに親しんでいると、なんだコイツは、みたいな驚くような社会人といっぱい接することになります。

 

でも冒頭で述べたようにそれらはいわば当たり前なのです。

 

街や職場が現実で本は基本的にはあれは理想です。

 

で、理想についてなのですが、理想みたいなものは芸術に丸投げしていいんじゃないかと僕はたまに思うことがあるのです。

 

映画には見上げたような人物がたくさん出てきます。

 

あるいは小説にはあるべき精神が説かれているものも多いです。

 

 

でもそれを実行するのって、あの巨大な理不尽な人間の山がつくった仕事にはなんの役にも立ちません。

 

これは断言できます。本に書いてあることは、それもたとえば小説なんかに書いてある世界は、あれはでたらめというか、要は仕事でくさくさした感情を持っている大多数の人間に教育しているのではなく、純粋に作品として面白いと思ってほしい構図があるのです。

 

そのための現実の理不尽さだと思っても差し支えない。

 

もし現実が小説に書かれているとおりだとしたらその小説は駄作です。

 

小説の役割は、ふつうの人がふつうに生活しているだけではみえてこないものを描く使命があったります。

 

で、その面白さや描かれたものを堪能するためには現実の理不尽さには耐える必要がある。

 

誰だって楽園に行ってみたいと思うでしょう。食べ物や衣服や異性がたくさんいて、ずっとそこにいてもいいよと言われたら、その場所は楽園です。

 

でも楽園にはひょっとしたら小説を読んで感動するひきがねとなる要素がまるでない可能性もあります。

 

その場合は楽園自体が一つの作品なのです。

 

そこで生活する人間はいわばプレイヤーで、はたからみた場合にのみ、ある一定の評価になりますが、本人たちはこういったらなんですが、飼育されている豚と一緒なんですね。

 

哲学者のアランは、不幸がなければ幸福はない、と述べていますが、

 

僕の見解はちょっと違うんです。

 

不幸なんてない方が幸せに決まっているんです。

 

そこは揺るがない。

 

ただ人間は不幸のなかにある幸せをみつけることができるし、またそっちの方が強く幸福を感じるような生き物なのです。

 

だから芸術みたいなのが成り立つわけです。

 

で、そういうわけだから、天職っていうのはほんとはあれはまやかしの言葉なんですね。

 

僕はこう考えるんです。

 

つらいつらいと毎日思う仕事であればあるほど、仕事が終わったあとに幸福を感じる度合いが強いわけですから、つらい仕事の方がある意味、天職だと

 

こういうとふつうの人はなにを言っているんだ、となるでしょう。

 

実際、ほんとにつらくてつらくてしょうがない場合は、転職します。

 

これは正しい判断で、そのままいると、何かがくるってくる可能性がある。

 

ある程度、くるっているのは会社ではあるけれど、ほんとうにどうしょうもなくくるっているというところは、これは残念ながら自分で判断しなければならないので難しいのですが。

 

話を戻すと、要は小説のような理想の世界に浸ってその理想をうけついで発言にそれらを含ませる生き方は、それはそれでひとつの優雅なのかもしれませんが、

 

住んでいる場所が楽園ではなく現実である街なので、

 

面白かったり、すごいなと思うような出来事はないのが当たり前だったりする。

 

だから、僕は誰かが誰かを、だらしがないとか常識がないとかかっこわるいとかそういった理由で人を嫌いになるのは、一面においてバカだと思っています。

 

仕事が遂行されるためには、そりゃあモラルにかけたことくらいするでしょう。

 

電車でくだらない話を大声でしたり、タバコのポイ捨てをしたり、そういうのは人間のあるワンシーンなんですね。

 

ストレスがないときでは同じ人間でも、その捨てたタバコの吸いがらを拾いに行くような人かもしれません。

 

このあたりの洞察ができていない映画なんかが日本にはたくさんあるのですが、(例として有川浩原作の『阪急電車』など)

 

みてて、バカだなよりも先に、そういう触れ込みではないヒューマニズムをどちらかというとうたっている作品なのに、商業狙いかと思ってしまいます。

 

だって、みんなそれぞれリア充みたいな言葉のとおり、自分の楽園をつくろうと計画する人ばかりですからね。その手の大多数の人には、当然、うけますが、

 

上に長々とあげたからくりを知っている人は、なんだかしらけるというのも一つの真実です。

 

僕は仕事を円滑にすすめるためには、ある程度、俗物にならなければいけないと思っています。だから仕事行く前の電車のなかでは本を読みません。そこにある車内広告だったり乗ってくる人だったりそれらにだけ注意を向けています。

 

 

 

映画『海の上のピアニスト』にみる、隣の芝生は青くみえる論。

僕はずっとタイトルにあげた映画の世界観が好きだったんです。

 

豪華客船のなかで社交場のピアニストとして育つ主人公。

 

彼はピアノしかしらない。というか船の中しかしらない。

 

だから人生の最後にはじめて恋心を知っても、恋よりも自分の”属する”船のなかですごすことを決意する。

 

この映画の、その一瞬あらわれる女性、主人公が恋心をはじめてもった女性の描かれ方は正直すごく上手です。

 

表情とか目の感じとか、この女性もはかない気持ちを抱いているんだなあというのが伝わってきます。

 

でも僕は最近この映画に惹かれなくなったんです。

 

なんでかなと思うのですが人間の環境に注目して最近日々生きているので、もしこの主人公が鬱屈とした閉塞感のある国と場所に生まれたら、そんなふうには決して思わないものというのに気づくからです。

 

当然のものとして初恋の成就のうれしさに喜びを置くのが人間でそうではない場合にこういった映画の世界が成り立つのはふつうじゃないからなのは当たり前のことなのですが、育った環境は大きく人に影響を及ぼします。

 

僕が大学生だったころ、教授に、「でも人は環境によって影響される部分は大きいわけですから僕がそんなに勉強熱心ではないのも、ゆとりなので仕方がない面もあるのではないかと」

 

みたいなちゃらちゃらした発言をしたら「環境、環境などというけれど人間それだけではありませんよ」と。

 

でもこういう考え方はどちらかというと厳しい考え方だと思っていて、

 

それだと真実がみえてこない面はある、と僕は当時教授になんと言われようとうすうす思っていたものです。

 

というのは今でいうところのISのテロリストっているじゃないですか。

 

あの戦闘員たちを、「どんなに自分の居場所の環境が悪くても、人道的に正しい道を歩む立派な人間もいる」と正論を言ったところでは、もう分析はおしまいなんです。

 

それよりも「いったい詳細として彼らはどういう生活を送っていてどういう不満があってその不満を解消すべき方法はほんとうに社会的にないのだろうか」と

 

まず同情の部分から分析をしていかないと現実に役立つものにはならない。

 

そういったものを考えていますと、

 

上にあげた映画の世界観の成功も、あるいはその映画をけなす批評もどっちも存在として論が立たないということはありえなくて、

 

どっちかの世界にいたら他方の価値観はすぐれてみえるし、またその逆はその逆なんです。

 

で、さらに論をすすめると大多数の人の価値観でない方に美徳が置かれる傾向にあるのも人間の性なのですが、

 

その美徳を感じるためには大多数の価値観を知らなければならない。

 

そのためには俗を知らなければならない。

 

上にあげた映画をみて、「きどりやがって」みたいに思う人を、たとえばその映画が好きな人は、けなせないはずなのです。

 

そういう一般的な人間らしい価値観によってしか映画の成功も、ひいては芸術の成功もない。

 

僕はそういうのを知ると、主義主張というのは全部ポジショントークでしかありえないのではないかと考えてしまいます。

 

人間はおかれた環境が違えば、たとえ同じ人間であっても、俗に染まったり、あるいは映画の主人公みたいに華麗になったりする。

 

多くの人は(昔の僕も含めて)、感動的な映画だった、という感想しか持たず、上述したようなことまでは考えたりしないものなのですが、考え抜くとそういった話になります。

 

一日一日を大切にしすぎる日本。

前回の記事の続きみたいになりますが、サービス業のサービス内容が過多だということは競争がより一層はげしくなって、つまるところ一日一日の重みが強くなって、要は世の中が変化するスピードが尋常じゃなくなるということです。

 

僕は『ブロークバックマウンテン』という映画のなかで好きなシーンがあるんですが、

妻と離婚した主人公が、ほとんど物もないトレーラーハウスに住んでいて、牧畜業を営んでいるなか、娘がその田舎まで訪ねてくるシーンがあるんです。

 

で、娘は結婚報告を父親にしにきたわけなんですが、そこで主人公はこう言うんです。

 

「〇〇はどうした?」

 

すると娘はこう言います。

 

「〇〇とつきあっていたのはもう二年も前の話よ。今は□□という新しい恋人がいてその人と結婚するから式には来てね」

 

このやりとりでアン・リー監督が表現したかったのは、二年後に好きな人が変わるという期間をどうとらえるかと、どうして一途の愛を選ばないんだ、その新しい恋人はほんとうにお前を愛しているのかというまあひとつの純愛ラブストーリーなのでそういうセリフを挟むんですが、

 

僕はちょっと違う観点からもみていて、都市部あるいはここでは日本の過剰な働きぶりはそれこそ結婚生活にも少なからず昔と比べてなんかしらの影響を及ぼしているんじゃないかと。

 

実はものすごく便利になっている日本という国がある反面、別に日本人よりなにか知能が劣っているとかそういうのでは決してない他の国やまた日本の中でも遠い田舎の国の人たちからみたら、なんでそんなに日を追うごとに変化が必要なの?なんでそんなに働くの?それに伴う社会問題もたくさんあるのにそこを無視して前に進むの?

 

と疑問がたくさんあるんじゃないかと思うんですね。

 

僕がもうついていけなくなったのはサッカーの世界です。

 

だれだれがどこどこの監督をつとめてこういう選手がいてこういうフォーメーションでというのが一か月後にはさらっと変わっていることがある。

 

スポーツがサポーターの労働状態を前提としないはずはないので、目まぐるしくそれらが変化をするのは、結局、みんななんかしら現状が不満なわけなのです。

 

田舎暮らしでとくにそういう生活に不満を覚えていない人は、三か月前も一週間前もきょうも大体似たような生活を送っているんじゃないでしょうか。

 

そして都心部の人よりも一日一日にそんなにプレッシャーをかけていないわけですから健康にもいいわけなんですよね。

 

で、核心をついたことを書くと、要は別にそういうスローライフはみんながみんな送れるわけじゃなくて、誰かがなんかハードワークするやつが出てくるんですね。それに負けじとみんながんばる。

 

そして、彼らは他のたとえば田舎暮らしをしたことがない人だったりするとそれが当たり前だと思っている。

 

でも、都心部で得られる幸福と田舎暮らしで得られる幸福は変わらないというか、僕が主張したいのは”それらがどっちも同じくらいの幸福だという真理を感じられる人間でない人が多すぎるがゆえに過剰なものが生まれる”

 

というもので、今はそのどっちもの良さを同時に体得するデュアルライフが流行っているのは、まあ上に書いたようなことがあるからなのでしょうね。

サービス内容が過多な日本。

今、接客販売の仕事についているのですが日本はどうしてこうもサービス業の仕事内容が「自分が消費者だったらそこまでしてもらわなくてもいいのに…」といったサービスが多いのだろうかと考えてしまいます。

 

日本という国は一見優秀な国のように世界と比較すれば思えますが気づいている人は気づいていると思うのです。

 

「もっと他にみんなやらなければいけない仕事ってあるんじゃない?」と。

 

新聞を読んでみますと介護人材が足りないとかいじめでしょっちゅう誰かが死んでいるとか貧富の差が拡大しているとかまあいろいろありますよね。

 

一般市民が、それこそ働く世代の人間にモラルというか日本という国の問題の優先課題としてそういった認識があれば今ある日本のサービス業の大半はなくなるでしょう。

 

なぜならどう考えてもいじめで自殺するこどもの方が”かわいそう”だからです。

 

ただ一方では大量に自殺者がいて、一方では過剰なサービスを開発する人間がいて、そうやってうまく社会がまわっているという見方もできなくはない。

 

分業社会として国の優先課題の仕事に取り組んでいる人たちはやる人が少ないがゆえにハードな仕事を担います。その疲れやストレスを過剰なサービスをうけて、

 

また元気に仕事に行く。これはサイクルとしては別におかしくない。

 

 

ただそういう人の命に関わる仕事についている人たちが全員、民間の過剰なサービスを欲するかといえばそうではないし、またもっとも変なのは過剰なサービスを提供する側の人間が一歩組織の外を出たときに他の自分がかかわっていないサービスの内容に不満を持ったりすることです。

 

この理屈は、自分はこれだけのことを提供しているからまわりもそうでなければいけないという不思議な理屈なのです。

 

そういう人たちはそれが日本に特有の性質であることに気づいていない人も多い。

 

僕は接客販売をしていますが、どこか休みの日になんかの店に入って、店員に話しかけられたらうざいと思ったりするところがあります。

 

要は僕は別にサービス内容が、人間の根本的欲求の最低限のところの基準をクリアしていればそれ以上のことはどうでもいいと考えている人間なのです。

 

堀江貴文は洋服を買ったときに畳んでふくろに入れてもらうサービスにたいして不必要であると言っていたことがあります。

 

とかく自分にとっては、そんな服ごときで丁寧にくるまわれても、うれしくないし、むしろビニール袋にほいっと入れてもらえればそっちの方が時間がかからなくていい、と。

 

さて、これはどっちが少数派なのでしょう。

 

僕の憶測だと、丁寧なサービスをうけたいと思っている人は先ほどものべた日本特有の高度なサービス業社会に洗脳されているのです。

 

もしなにかしらの事情でたとえば中国の奥地で生活しなければならないとなったときに、隣の街に数軒だけある店で日本なみの過剰なサービスを受けたいと思うことはないのではないかと思います。

 

その分のエネルギーや人材やお金を、人の命にかかわる事業の方へ全部まわすのが賢い視点なのですが、そういった視点をもつ、プラトンが唱えたような万能の人を国のトップに置くというのはなかなか非現実的なので、僕もやむをえず接客販売の仕事をしていますが、

 

そのあたりを意識している人間は、一見少数かもしれないですが、どっちが普遍的かと申しますと僕が述べたような考え方の方にあるのは間違いないでしょう。

 

 

33歳。

僕は家に居づらくなった。

 

父親の頭が完全に、柔軟ではなくなった、理を求めなくなった、感情的でそれでいて高圧的になった。

 

今僕は33歳で、

 

きっと10年前の僕からしてみたら、僕が今父親に対してそう思うのと同じように、体力も感性も劣化したと、そう思うだろう。

 

卒業した小学校と中学校の横を通り過ぎた。

 

雨が降っていた。グラウンドは真っ暗で、校舎は見上げる余裕がなかった。

 

僕は33歳が僕にとってこんなに寂しいものだとは思いもしなかったよ。

 

あの頃の友達はみんな結婚して家庭を築いている。

 

いっしょに悪ふざけした友達はたくさんいたのに今はもう会わない。

 

学校に制服ではなくスカジャンで来た不良たち。

 

僕に告白してくれた女の子。

 

卒業する最後までうまがあわなかった教師。

 

彼らはみんな一過性の人たちだったのだ。

 

絶対にそこにとどまっているはずではない人たちだった。

 

それを回顧したところでなにになるだろう。

 

だけど僕は確かにあのとき、大人になったら何でも自由で楽しいことばかりだと思っていた。

 

本当にそう思っていたんだよ。時間が経ったね、ずいぶん経ったね。

 

僕に告白してくれた女の子。僕が人生ではじめてつきあった女の子。

 

学校を卒業した日に電話したね。長い電話だったのか短い電話だったのか、今はもう覚えていない。

 

今でもちゃんとそのときの電話ボックスあったよ。

 

今でも確かに同じ場所にぽつんと立っていたよ。

 

僕はそれをみるたびに何度も何度も寂しさがこみあげてくるだろう。

 

一過性の人たちは一度過ぎ去ったら鳥のようにもとの場所には戻ってこない。

 

あの電話ボックス、いつまであそこにあるのかな。

 

もし僕がこの土地を離れて、年老いてから戻ってきたら、そうしたら、もうそのときこそなくなっていて、僕は今こうしてその電話ボックスをみて寂しいと思ったことももう思い出さなくなるんだね。

 

そうなんだね、今の僕も一過性の存在なんだね。

 

でも33歳を僕は覚えおくようにする。

 

これからどんな人生があったとしても、33歳は覚えておくようにする。

 

ちょうど15歳のころを覚えていたように覚えておくようにする。

 

だってそうしないと。

 

時間はたちが悪いから、ほんとうになにもかも忘れてしまうね。

 

でもね。

 

それでいいのかもね。

 

いつかどこかで会えるよね。

 

たとえもし覚えていなくても、僕の記憶が正確で、そうしたら久しぶりの会話がひと段落したときにこっそりトイレに行くふりをして、

 

僕は煙草を吸いながら、涙をこぼすかもしれない。

この世に永続、長続きするものは何一つないと思った方がいい。

僕はずぼらな人間ですからね、もともと。

 

ネットやパソコンが好きなのもそれが楽だからです。

 

楽なんですよ、特に僕がこれは一番楽だな、と思うのはコンテンツの消化です。

 

ネットがなかったとしたら、よいコンテンツを探しにどこか行かなければならない。

 

物理的に外に出なければならない。

 

別に食べて寝るだけの生活に満足を覚えるようであれば別ですが人間は幸か不幸かそれだけでは満足しない生き物なのです。

 

で、僕がこれが実はもっとも何もかもをショートカットした楽なコンテンツだなと思うのはアダルト動画です。

 

よくゲームの発展が、そのままITデバイスの進化に貢献したといわれますが、僕はそれより動画の方が果たした役割は大きいような気がしています。

 

成人男性でネットが自由に使える環境でゲームはしたことはないけれどアダルト動画をみたことがないという人はいないんじゃないでしょうか。

 

僕はアダルト動画の普及が昨今の晩婚化に与えている影響は少なからずあると考えている人ですが、まあそれはどうでもいいのです。

 

晩婚化だろうが、少子化だろうが、日本の人口が8000万人になろうが僕にとってはどうでもいいことです。

 

そんなことよりもっと深刻なことがたくさんありますからね。

 

で、特にこれは深刻だなと思うのは、そういう上にあげた怠惰な姿勢からくるなにかの劣化です。僕は毎日、実はそのたぐいの恐怖と戦っているところもあります。

 

そうなんです、ほんとうにずぼらなんですよ。

 

食べる時間とか食べるものも適当だし、タバコの節約という概念はないし、貯金もあんまり考えていない。それで毎朝、びくびくしながら生きているといっても過言ではありません。心配性というかもともと考えすぎる性質なんですね。

 

ひどいときなんか、あ、やばい、タバコの吸い殻を水しかないまま放置してもしかしたら家が燃えるかもという心配が朝にあったり、とにかくいつでもこのままではやばいやばいと気だけは焦っている状態です。

 

これはなんでかな、と思うのですが、ひとつには毎日服薬していることがあげられるかと思うのです。僕は8年間薬を飲まなかった日がないのです。それで、今もし薬が消滅したら僕はまた状態が悪くなるかもしれない、という危機感がつねに頭のどこかにあって、

 

そういうところからの発想で、ストレスはうまく発散したいという気持ちと平行して、

 

ちょっと気を抜くと何もできない人間になるという感覚がある。

 

実際、三年間何も、それこそ寝て食べて本読んでくらいしかできない時期がありましたからね。

 

僕が本をというか何かを読みたいと渇望するのも、ふつうの人ならまだしも僕みたいな人間が堕落したらほんとうにやばいんじゃないかと思っているからです。

 

でもそれでいいんじゃないか。

 

人間いつ死ぬかわかりませんからね。

 

自分の価値観とはそぐわない一日にいやおうなく行かなくてはならなくて、教養というか教育的な文章も突っぱねたいけれどもそれを消化して、それでじっさいに嫌気がさしてそれらに悪態をついて向上を何日かさぼっても、また別の日にまったく同じコンテンツに接して、教育されて、おおそのとおりださぼっていた自分がだらしない、と思うのを繰り返せばそれでいいんじゃないかと。

 

それを繰り返しているうちに人生は終わります。それは良いとか悪いとかじゃなく。

 

 

アドラーの教えはロマンを排している。

昔、アドラーに学ぶよくいきるために働くこと、みたいなタイトルの本を読んだのですが、このシリーズ、売れているみたいで、違うバージョンの同じ作者の本だったと思うのですが、そのなかの一文「構えさえできていれば人間はどんな相手ともパートナーになれる」

 

という箇所が印象に残っています。

 

というか僕は大学生ぐらいのときから、アドラーなんて知らなかったけれど、うすうす人間ってそうなんじゃないかと思っていたものです。

 

ほら、戦時中なんて相手を選べないじゃないですか。それでもうまくいっていたというか今より離婚率低かったですよね。

 

もちろん時代の風潮としてたとえば離婚なんて恥ずかしくてできなかったとかはあるかもしれないですが、それ以上にただたんにふつうにうまくいっている家庭がたとえ見合いでもあったのじゃないか。

 

そういうことを考えていると、理想って今、なんの分野でもありますが、理想は理想のままでこない方がいいという説を唱えることができる。

 

というのも理想は理想だから、理想が現実にやってきたときにそれはすでに理想じゃないんですよ。

 

現実に変わるのです。そしていったん理想が現実になるとまた別の理想ができる。

 

それだったらはじめから現実のままでつきとおしていくのも面倒をはぶくという点ではそれそうおうに効率的なんですね。

 

でも人間の寿命が長くなってようは無駄なことを考える時間が増えた。あるいは平和になってからそういう時間が増えたと唱えられなくもない。

 

もちろん救えなかった命が救えるようになったとかは好ましい形での理想の実現でしょう。

 

ただ僕が主張したいのは人間は無駄なものまで理想を現実にしてしまう生き物で、これとあれだけ理想を現実にすればことうまくいくものを、あれこれなんでも欲望のままやってしまって選択するときに制限みたいなのがないんですね。

 

これは人が持つ不幸性だと僕は思います。

 

いつでも人間の愚かさを戒める作品というのはあります。

 

それらはみようによっては人間の不幸の象徴であると言ってしまうとニヒルになるけれど、ことさらアドラーの教えに関しては僕はこんな推測をしてしまいます。

 

アドラーの教えの本は確かに売れています。ただそこにあるように、どんな相手であれ、結婚に関していえば、結婚できるのが人間であり、そうできないのであれば自分の人間性がたりないことをまず問題視して、磨き上げたあとでは生涯未婚率は改善すると。

 

しかし、それがまさに実行されるのであれば、テレビ、漫画、ドラマ、映画、なんでもいいのですが自由恋愛を謳ったというか根底にそれがある作品については価値観を相容れない。

 

つまりテレビなんてみない発想になってしまいます。テレビをみて影響される人たちの方が本を読んで影響される人たちより多い証拠なのですね。

推測が続きますが、結局、人間は楽な方、自由な方にどうしたって流れていくわけなんです。

 

ですがそもそも自由というのはなんなのでしょうか。

 

唐突に記事を終えますが、アドラーの教えにしたがって生きていった人間は我慢とか忍耐とか本質を見抜くとか客観性があるとかあらゆる人が生きていく上でそれこそ自由になるための素質が備わるわけなんですね。

 

そう考えると制限のあるなかでの自由、現実にしばられた限りなく現実に近い理想の方が、遠くにある手放しで感じられる自由や、手に届きそうにない神々しい理想よりも、よりよいものだったりするんですね。そういうことに多くの人間は気がつかない。